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クンデラ・丸山真男に見るある現象

もしある価値が具体的な内容を失ってしまったなら、その何が残るのか?
空虚な形式以外のなにものでもない。それは応答のない絶対命令となるが、この絶対命令は応答がないだけにそれだけますます激しく、聞かれ従われることを求める。

ミラン・クンデラ 『小説の技法』

 これはクンデラが、エッシュというヘルマン・ブロッホの小説の登場人物について語ったものだ。

 具体的な内容をもたない価値は、応答のない(応答しようがない)絶対命令となるがゆえに、より激しいものとなる。これは身近な話にも当てはまることだろう。具体的でないふんわりとした要請ほど、強力なものだったりする。

 たとえば、「愛国」はこれに該当するだろう。とくに現代日本において、ナショナリズム・国民国家といった概念は、西洋から輸入したものだからということもあり、「愛国」という概念はあまり定着していないように見える。しかしだからこそ、「愛国」というフレーズは好き勝手に使えるマジックワード、形骸化していながら強い印象を与える言葉として機能しているのではないか。

 またこれは、戦前から戦時中にかけて猛威を振るった「國體国体)」という概念にも当てはまる。明治以降天皇制が整えられていくなかで、「臣民の無限責任(丸山真男)」によって支えられたあのイデオロギーだ。

国体を特定の「学説」や「定義」で論理化することは、ただちにそれをイデオロギー的に限定し相対化する意味をもつからして、慎重に避けられた。それは否定面においては――つまりひとたび反国体として断ぜられた内外の敵に対しては――きわめて明確峻烈な権力体として作用するが、積極面は茫洋とした厚い雲層に幾重にもつつまれ、容易にその核心をあらわさない。

丸山真男『日本の思想』p.36

 まさにこれは最初にクンデラが言っていたことと同じ構造だろう。具体的な内容を明確にしないことによってだれも触れることのできない”聖域”となるわけだ。このことについて丸山は、ポツダム宣言受諾の直前の御前会議の混乱を例に挙げながらこう語っている。

また事実あれほど効果的に国民統合の「原理」として作用してきた実体が究極的に何を意味するのかについて、日本帝国の最高首脳部においてもついに一致した見解がえられず、「聖断」によって収拾されたということである。

同上 p.38

 笑ってしまうような笑えない話だが、軍部の上層部においても「国体」概念は一義的なものではなかった。この「国体」とは、中身が空っぽの巨大な器のようなものであり、そこに都合よく様々なイデオロギーを放り込むことができたのだ。

 だから終戦後の極東軍事裁判において鵜沢総明(日本側の弁護団長)は、日本の「本来の」国体は、五か条の御誓文や八百万の神々にもとづく民主主義であるなどと言うことができた(同上p.39)。つい昨日まで日本が「”真の”全体国家」だなどと喧伝されていたのにである。

 クンデラに戻ると、エッシュはこう語られている。

エッシュは神なき時代の狂信を体現している。あらゆる価値がその顔をヴェールで隠されてしまっているのだから、何もかもが一つの価値とみなされうる。・・・彼はテロリストになれるが、仲間を密告する後悔したテロリストにも、党の闘士にも、セクトの一員にも、じぶんの命を犠牲にする自爆テロ犯人にもなれるかもしれない。

クンデラ 前掲書 p.78

 話を日本に引き付ければ、「日本は全体国家にも民主主義国家にもなれる」「日本人は天皇主義者にも民主主義者にもなれる」と言えるだろう。

 また、昔は左翼的だった人がいつの間にか(ネット)右翼的になっているということもよく聞く。私の身近にもいる。この現象は一言で説明できるようなものではないだろうけど、この近代人の”空っぽ”のあり方が関係しているのかもしれない。

 ナチスドイツの台頭を間近でみたブロッホが描く人物は、日本帝国の人々と共通する要素をもっている。そしてこの現象(具体的内容のない価値、それを源泉とする力)は、消え去ったわけではない。だからこそ、イデオロギーを見えるようにし、論理的に解明することは、とても重要な作業ではないだろうか。

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