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議論・民主主義・政治・丸山真男

 「○○的」という言葉は便利で、つい使ってしまう。「唯物論」「社会主義」など、それ自体でバシッと示すと細かい定義が気になってくるが、「唯物論的」「社会主義的」と形容詞的に使うと、ふんわりと意味が伝わる。

 しかしこの「ふんわり」というのが曲者で、自分のなかのイメージと受け取る側のイメージがズレてしまうことがある。だから注意しなきゃいけない。

 多くの議論・論争は、まず「この言葉の使い方」がズレているところから生じる、そう言っても過言ではないと思う。いきなり議論を始めたところでお互いのバックボーン、抱えている観念が違いすぎてすれ違ったまま、ということはツイッターでは日常茶飯事だ。ツイッターに限らず対面の会話でも、言葉のもつ意味が自分のイメージする通りに伝わらないというケースはとても多い。

 日本人は議論が下手だと言われる。それはその通りだろう。議論の伝統がないし、民主主義の歴史も浅い。しかしやっぱり民主主義を遂行するには議論が必要不可欠だろうから、少しづつ磨いていくしかないと思う。それか民主主義をあきらめるか。

 また、若者は政治の話をしたがらないと言われるが(僕もまぁ実際そうだけど)、それじゃあダメだと思う。とはいえ、「安倍さんがんばれ~」とか「自民党は嫌いだから立憲民主党支持!」みたいなことを叫ぶだけじゃ仕方がない。なぜその政党を支持するのか(しないのか)、その理由を掘り下げて、お互いに相手の主張を理解したうえで話さなくては意味がない。そうしないと、なんの成果も得られずただ分断が深まっただけ、ということになりかねない。

 しかしそこまで厳密に考え出すと、これは結構めんどくさい。それに実存が関わってくる。ある政治理論を支持することは、社会に対するスタンスを示すということだし、それは最終的に人間をどう考えるかということにもつながってくる。たとえばマルクスが資本主義を告発した背景には、資本主義が人間の人間性を毀損しているという視点があった。

 だから、政治について語るとは大変なことなのだ。大変なんだけども、民主主義を実行し、国民主権をその言葉の示す通りに行おうとするなら、やるしかない。民主主義という政治制度は一人ひとりが政治について語り、行動することでしか実現されない。

民主主義というものは、人民が本来制度の自己目的化—物心化―を不断に警戒し、制度の現実の働き方を絶えず監視し批判する姿勢によって、はじめて生きたものとなりうるのです。

つまり自由と同じように民主主義も、不断の民主化によって辛うじて民主主義でありうるような、そうした性格を本質的にもっています。民主主義的思考とは、定義や結論よりもプロセスを重視することだといわれることの、もっとも内奥の意味がそこにあるわけです。

丸山真男『日本の思想』p.173


ところで京都市長選挙のポスターにこんなのがあった。

 「アホしね」(朝青龍)

 ある問題を解決するために政治があり、その政治をするための手段として政治家がいる。なのにそれ(政治家)を「アイドル(偶像)」のように扱うのは本末転倒だ。いかにも役人が時流をよんで適当に作ったようなポスターだが、ここには深刻な問題がある。

 「推し」について考えると、「推す側」は基本的に「推される側」よりも低い位置にいることが多いだろう。アイドルなんかは典型的だ。あるいは少なくとも、「推す側」と「推される側」が同じ地平にはいない、と言うことはできるだろう。「推される側」が「推す側」の代表であるなんてことはありえない。

 しかしすでに述べたように、政治家はあくまで政治のための手段であり、国民の代表者である。だから本来は、政治―政治家―国民という関係が切れ目なく続いていなくてはいけない。にもかかわらず「推し」という概念は、この関係を分割させてしまう。「こっち(市民)は推す側」「政治家は推される側」という区別を作り出してしまうということだ。この区別を丸山は批判している。

こういう傾向がはなはだしくなってくると、政治活動は職業政治家の集団である「政界」の専有物とされ、政治を国会の中にだけ封じ込めることになります。ですから、それ以外の広い社会の場で、政治家以外の人によって行われる政治活動は本来の分限をこえた行動あるいは「暴力」のようにみなされるようになる。

同上 p.190

 嗚呼、半世紀以上前に書かれたにもかかわらず、なんと有効性を失っていない文章だろうか! そしてまたこうも述べている。

ここに潜んでいる、政治と文化をいわば空間的=領域的に区別する論理こそまぎれもなく、政治は政治家の領分だという「である」政治観であります。
それが打破されないかぎりは、いったん政治の世界に入ったものは行住坐臥すべての活動と考え方が「政治的」になり、反対にその世界の外にある者は政治に全く縁なき衆生―という「あれかこれか」の態度が個人についても国民の歴史についてもつきまとい
、あるいは極端な「政治主義」から急激に一切の政治的問題に背を向ける、われ関せず焉の態度に変わり、それからまたオール政治主義になるというふうに両者が交互に反覆していくことを避けられないのです。

同上 p.192

 まさにこの「推し」選挙ポスターは、政治(政治家)の世界と文化などそれ以外の世界を区別した世界観を反映したものと言えるだろう。

 「である」は「する」にくらべて静的な思考様式ということができる。「あっち側とこっち側」という見方は、「政治かそうでないか」「敵か味方か」という領域的、党派的な思考を生み出す。そういう硬直した「である」思考を変化させ、政治(という作業)においては、国民が政治家と同じ地平にあるという認識が必要なのではないか。


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