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私はなにもの

前回、体調不良について触れましたが、じっとひとり静かな時間を過ごすあいだ、横たわりながら現在までの自分をなんとなく振り返っていました。

孤独を自ら選んでいた長い時期がありました。
自分が何ものなのか、なぜ生きているのか、正しいって何、常識って何。この気持ちは誰にもわからない。それならいっそ孤独でいたい。

孤独という心理状態を好んで選択していました。ただ、ピアノを弾き、芸術音楽を聴き、何かしら音楽について学ぶことに没頭している時だけ、そのしがらみから解放されていました。

答えを求めていたのか、拠り所を探していたのか、『積木くずし』穂積隆信、『青春の門』五木寛之、『無関心な人びと』アルベルト・モラヴィア、銀色夏生や灰谷健次郎、成長期の苦悩にぶつかる小説を好んで読んでいました。

『人間失格』

太宰治の小説もそのひとつ。いっそ「失格」と言われたらどんなにラクだろうと思いながら読んでいたこともありました。

中高時代のことを聞かれると「暗黒時代」とか「やさぐれてました」とか「闇」とか、そんな風に笑って答えます。そんな時代があったからこそ今があり、その時の様々なことが現在につながり、感謝して生きることができているからです。

最近、「私ってどんな人ですか?」いろんな人に聞いてみました。家族、友人、同僚、上司。

異口同音に「冷静沈着」。これは、小学生の頃から言われることでした。根本的な性格。

「俯瞰している」「他人との距離をとるのが上手く、誰とでもつきあえる」「頼りたくなる」「自分の感情に振り回されない」「サラッとしてる」「内面は熱く常に全力」

こんな答えが大多数。

自分なんて結局よくわからないことが多々あります。他人がどのように自分を見ているのか、聞いてみればいい。そして、素直に受け止める。

他人は自分の鏡です。意識していない自分に気づくこともあります。他人の行動によって自分を知ることも多い。

そう。結局、人間は人間に支えられ生きている。

『人間失格』

この映画の公開を知って、すぐさま観に行きました。過去の自分が考えていたこと、今沸き起こる感情。そのすべてが私自身。

太宰治

会ってみたかった。






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