COEDASがコエダさないこと|りえちゃんマイストーリーの裏側②
お久しぶりです。しばらくnoteスランプにハマっていたゆうきです。COEDASではきぃちゃんと呼ばれたりします。
前回のおはなしはこちら↓
COEDASについてはこちら↓
光と影をテーマに、これまでの人生を、全力で赤裸々に語ってくれたりえちゃん。
話し終わった後、その場にいたほぼ全員が、
「素晴らしい!」
「すごい人だなと感じた」
「勇気をもらった」
など賞賛の声を贈り、彼女は、時折涙を見せながら聴いていた。
その時、COEDAS代表のじゅんさんが、こんな言葉をかけたことで空気がガラリと変わった。
神がかってる
じゅんさんって、いい意味で空気を読まない。
これだ、と思ったことをどんな場でもズバっと言い放つ。
それが彼の魅力であり、そしていつも本質的な何かを掴んでる気がする。
そんな雰囲気の時は、いつも、神がかった顔をする。今回もそうだった。
だけど、深すぎるからか、一瞬では理解できないときが、ある。
この時のりえちゃんもそうだった。
もし、
りえちゃんが8割くらいの力でマイストーリーを語っていたのだとしたら、別に何も引っ掛からなかっただろう。
だけど、
彼女は全力だった。
だからこそ、
「お前は未熟者だ」と言われたんじゃないかと妙に引っかかったという。
テスト前に「全然勉強できなかった〜」って言っておいた方が、結果に何言われても「仕方がない」と思えるけど、全力で取り組んだ結果は、そうはいかない。
モヤモヤっとしながら、りえちゃんはその理由を探る旅に出ることになった。
ある日、わたしは保育園児たちと公園に立っていた。
保育参加の日だ。
息子(Aくん)のママっていうだけで、園児たちは体当たりで接してくる。
完全に私のことをおもちゃだと思っているんじゃないか?っていう勢い。しかも、男児は全く人の話を聞いていない。
彼らは私の手を取り、膝や背中に乗ってくる。こっちも、◯っぱい触ってくる男児をサラリとかわしながら、全力で遊んだ。
「Aくんのママ〜、一緒にコレ集めよ〜」
断る理由は一切ないはずのお誘いが、あまりに純粋すぎて一瞬止まりそうになりつつ、「はーい、やろうやろう」とBちゃんに返事をした。
この実を集めながら、思った。この子たちには「自分は受け入れてもらえないかもしれない」という不安感や恐怖心を持っていないのかもしれない。
そして次の瞬間、
どぉぉ〜ん
後ろから園児に体当たりされて、集めていた実を全部こぼしてしまった。。
「ごめん・・・落としちゃった💦」
「え〜じゃあ、次はこの辺探そうね」
ん?
もっと怒られるかと思ったのに、私の失態は気にせずBちゃんは好奇心の赴くままに実を拾い続けた。
この姿を見た時、舞台上でヒロインがスポットライトを全身で浴びるかの如く、何かがビビビッて反応するのを感じた。
子供は、私がここに存在するだけで、それをそのまま受け入れてくれている。私が「実を持つ」という機能を果たしているからではない。
そういえば息子や娘たちもそうだった。「ママ」の機能を果たすからではなく、「私」そのものの存在を受け入れてくれている。
例え
四角い部屋を丸く掃除したり
お気に入りの服を乾燥機で縮ませたり
味噌汁にお出汁を入れ忘れてしまったりしてもだ。
たぶん、私のことを嫌いになることは、ない。
愛っていうやつ
恥ずかしくて真正面から語れたもんじゃないけど、
この言葉が今は一番しっくりくるから敢えて使う。
これが愛なのかもしれない。
相手のことを「機能」としてではなく「存在」そのものをただ受け入れる。
だから、機能を果たさなかったとしても(もちろん果たしても)、その人そのものを丸っと受け入れる。
そんな在り方が、愛をもって接することなんだと思う。
話を戻そう。
モヤモヤの理由を探してたりえちゃんは、
「未熟者だと思われたくない!」「もう自分は十分だと思いたい!」という自分の中の思いに気づいた。
人間って不思議なもので、人に言われてもしっくりこないが、自分で気づくと、急にストンと腹落ちするものだ。
中学生の頃、体操着に着替えていたとき友達に、「きぃちゃん、ズボンうしろ前逆だよ」って言われて「わかってるよ!!」って答えたのを思い出した。わかってるフリも甚だしい。
りえちゃんは違った。じゅんさんに言われて、自分と向き合い「確かにその通りですわっっ!」ってストンと受け入れていた。
それだけでも、彼女の胆力のすごさが垣間見れるが、さらにその奥にある願いをも言葉にしてきた。
人に愛されたい
なんの迷いもなく言い放ったこの一言に、こっちがたじろいだ。
つまり、
彼女なりの「愛」の説明は、十分に親しみやすく、平易な言葉で表現されていた。
マイストーリーをCOEDASの場で語ってから1ヶ月。彼女の中で何かがまだ鳴り響いているようだった。私の目にはこのnoteの記事が、その余波のような気がしてならない。
「何かをさがしているのだとしたら、探さないことが答えであってほしいと願っている」・・・この言葉たちが、今彼女の中で新たな意味を生み出し始めている。
だからCOEDAS
そしてきっと、この旅路は続いていくだろう。
そのために、彼女が選んだ場所がCOEDASだった。
「なかよしこよしは飽きた」
それなりに、なんとなく、いい感じにやり過ごすのは、もういい。
今回のように、痛みは伴うけど、フルオープンでありのままを体現し続けたい。そして、本当のところで繋がりたい。
それがCOEDASの場だった。
COEDASがコエダさないこと
じゃぁ、何が違うのか?
その答えは、コーアクティブ・コーチング®︎の大前提であるこの考え方。
この記事でも触れているから参考までに貼っておく↓
もっとカジュアルに、じゅんさんの言葉を借りて言えば、こうなる↓
「機能」としてではなく、お互い欠けるところのない「存在」として自分も相手も
受け入れる。
「声出す」ことを合言葉にする私たちが、当たり前すぎて声に出していなかったことが、実は一番大切なことだった。
そして、これからもこれを前提に場を作り、対話をして、サービスを創り続けていくのがCOEDASだ。
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