マインクラフトカップでもテーマになっているSDGsって何だ?世界道徳という、ゆるい考え方
こんにちは、K研究員です。
今回は、最近よく聞くようになったSDGsについて考えてみようと思います。私はちょっと前までは、SDGsなんて国連の押し付けでしょ、それに小難しいし、意識高い系の人がバッジをつけてるだけだし、気にする必要ないんじゃない?と思っていたものですが、ちょっと考え方が変わってきています。
SDGsとそのイメージ
SDGsはSustainable Development Goals(持続可能な開発目標)の略で17の目標からなっています。
ところで環境に関する国際的な目標というと、京都議定書がありました。京都議定書と言えばアメリカが離脱し中国が参加せず、これは意味があるのかということなどいろいろな議論がありましたね。また、日本の目標値が厳しすぎて誰もが達成不可能と考えていました。
その京都議定書も排出権取引によって目標を達成しました。
このような話を聞いていると、国際的な目標に対して自分ができることなんて何もないという気持ちになってきますね...
さて話をSDGsに戻しましょう。
SDGsはたくさんあるが?
SDGsには17の大分類と169の小目標があります。たくさんありすぎて覚えられないですね。ちなみにSDGsにはミレニアム開発目標(Millennium Development Goals: MDGs)という前身があります。
上記のページには、主に発展途上国の課題を解決するというのがターゲットだったのに対し、SDGsは先進国も含むものという記載があります。また、取り組みの主体も、国連や政府主体から我々一人ひとりが主体に変わったとのことです。
では169の小目標をすべて覚えて行動できなければいけないのでしょうか?
もう少し緩く考えてみる。世界道徳という考え方
しかし、実際のところ子どもや我々大人であってでも169もある目標をすべてちゃんと調べて覚えなければいけないというのは難しいでしょう。難しいからやらないというのでは本末転倒です。
そんな折に私は、同僚の「SDGsって世界道徳ですかね」という言葉を耳にして、なるほどなと思いました。
例えば日本人のもったいない精神が環境問題に良い影響を与えていることはよく言われます。
SDGsもあまり難しく考えずにそのような価値観の新しい形ととらえるのが良いのではないかと思うようになりました。というのも169の小目標の一つ一つを見ると、どれも日本人の価値観からしても極めて当たり前なものだからです。
道徳からSDGsへ?
日本には素晴らしい道徳があります。それによって環境や社会が守られているのは間違いないことでしょう。しかし、道徳にはグローバル化する社会において難しい点もあります。
道徳は国や地方によって異なる
例えばもったいない精神は素晴らしいことです。一方で、ご飯は残すほど出すのが美徳という国もあるでしょう。このように、国によって道徳は異なるので、複数の国や地方の人が共通のものとしてとらえられないという問題があります。
日本にはもったいない精神があるので、ご飯は米粒一つ残さず食べる人も多いでしょう。ではお茶はどうでしょう。居酒屋やレストランでは何も言わなくても食後のお茶が出てくるところもあります。それを残さず飲まなければならないという話はあまり聞きません。日本は水資源が比較的豊かなため、水に対するもったいない精神が希薄なのかもしれません。一方で砂漠の国では逆かもしれません。日本に来た砂漠の国の人はなんてもったいないことをする国なんだと思うかもしれないですね。改めて考えてみると、米農家には申し訳なくてもお茶農家には申し訳なくない理由はよくわかりません。
男女の平等についても儒教的な道徳観を持つ日本人はキリスト教的な道徳観を持つ人から見ると弱いと見えるのかもしれません。もちろん儒教的な価値観の国が男尊女卑ということではなくて、共通の価値観がないため認識に齟齬が生まれているのです。
道徳は現代においては教育が難しい
もう一つの問題としては、道徳教育がだんだん難しくなっていることです。「もったいない精神で米一粒まで食べましょう、お百姓さんの心です」と言ったところで現在ではテレビで生産調整のためにキャベツをトラクターでつぶす農家の映像も流れたりしますし、米を一粒残すことと米を研いでとぎ汁を捨てることと何が違うのかと考える子供もいるでしょう。道徳は素晴らしいですが、必ずしも合理的かというとそうではありません。同じ食品のロスをなくすために教育するならば、SDGsの12.3に立脚する方が教えやすいのです。
12.3 :2030年までに小売・消費レベルにおける世界全体の一人当たりの食料の廃棄を半減させ、収穫後損失などの生産・サプライチェーンにおける食品ロスを減少させる。
我々一人一人とSDGs
私を含めて、今の小中学生の親世代は、道徳教育を受けて育った世代です。そのため高度な道徳観を持っているのでSDGsは不要といえばそうかもしれないのですが、それを次世代に継承していくことはなかなか難しくなってきていることは事実です。
例えば男女平等ということについて、子供に教えたいと思ったときに、どのような教材が良いでしょうか。良い道徳教材を選ぶのはなかなか難しいですし、センシティブな話題のため、これなら間違いないという教材は難しいでしょう。誰に相談しても、「ここはおかしいのではないか」というところは出てきてしまいます。そのような際に、教える側としてもSDGsの5から教材を選んでくることは、かなりやりやすいです。
5.ジェンダー平等を実現しよう
そう考えるとSDGsは便利な教材の辞書(インデックス)という役割にもなりますし、普及していくのもうなづけます。そして、普及していけば将来的には共通の言語となりえるかもしれません。お百姓さんが泣いちゃうから米を食べようというように子どもに言わず、SDGsで語る日も来るかもしれません。
もちろんすべての道徳がSDGsに置換できるわけではありません。友達とけんかになっちゃったけどどうすればいい?人を殺してはなぜいけないの?こういう問いにSDGsが答えてくれるわけではないので道徳教育の必要性が今後とも変わることはないでしょう。
打算的でもいいんじゃない?
さて、一部の道徳がSDGsに代わってくるとすれば、SDGsを子供に教えて先取りさせておくことで今後の授業などで有利に働くはずです。マインクラフトカップも同じで、SDGsを知っている方が入賞できる確率は高まるでしょう。
そんな打算的でいいの?という声が聞こえてきそうです。SDGsってもっと崇高なものでしょとか国連から押し付けられた目標なんじゃないのとか。
でも私としては打算的でも何でもいいんじゃないかなと思います。SDGsという切り口は確かに押し付けられ感はありますが、169の小目標の多くは誰が見ても特に異論なくやらないよりはやったほうがいいことです。また、全部の小目標に対して何か個人がやらなくてはいけないというものでもなく、やりたいものをやっていけばいいと思います。それがなくても道徳で何とかなっていた我々世代は良いのですが、これからはそれも難しくなるとすると、SDGsに乗っかるのは悪くない選択でしょう。
でもどうやって子供に教えていけばいいの?
今回のマインクラフトカップでは、下記の3つの目標がテーマにあがっています。
SDGsを教えるときに大上段にSDGsとは何か?、設立の背景は?、前身は?という話は子供には入ってこないので、個別具体的に紹介していくのが良いと思います。
例えばマインクラフトカップに参加するのに15番を教えたいならこの本などが良いでしょう。全部を網羅する必要はなくて、今身の回りに起こっていることに関連があるものを見ていけばいいのです。
別の例としては水族館でマイクロプラスチックの海洋汚染について話を聞いたときに、もっと詳しく知りたいという時の教材として目標14に関する本を読むというのもいいでしょう。大体の社会問題はどこかのSDGsにあるので、社会問題の名前とSDGsでgoogle検索すると、何番目の目標かわかります。あとは図書館にその番号のSDGsについて書かれた本があるかを見に行けばいいのです。
まとめ
SDGsと聞いてあまり難しく考えたりする必要はなく、社会問題とそれに対応する道徳観を番号付けしただけのものぐらいの気持ちで接するとよいかもしれません。そうすると、どのような価値観で社会問題に接するべきか、それに対応した良い教材はないかという調査が簡単にできます。
なんか意識高い系の人になったようでかっちょ悪いなんて斜に構えずに便利に使っていけばいいのです。
また、169もあるものを全部理解するのは大人でも難しいので、自分に関係ありそうなこと興味ありそうなことだけを調べておいて、知らないのが出てきたらまた調べればいいぐらいの感じで問題ないと思います。
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