直感力と気遣い

「遠慮しなくていいのに。」

怖がってるよね、

気を使わなくていいのに、

直感力凄いんだから直感で生きなよ、

と言われる事がままある。

きっとそうだろう。

ありがたい事だと思う。  

私の感覚を信じてくれているという事だから。

だけど、心の中の水に一滴インクが落ちたような気持ちになる。

気を使うことは良くないのだろうかと。




気を使う事、

それは直感で生きる者だからの

畏れである。

恐れているのではなくて、畏れのほう。

畏敬の念

と言えばいいのか。

直感の強いと分類される人種であるからこそ、

それは自分の独りよがりな考えなのではないか、

自分が『わかった』からと言って、

それをさも、

何かからのお告げのようにだったり、

絶対的なモノとしてだったりすることは出来ない。

直感そのままに人に伝えていいモノであるのかを、
精査する必要を持つのだ。


そして、

直感者が感じることは、えてして

言葉としてではない場合が多いので、

(少なくとも私の場合は)

それを伝えるためには、必ず言語化する必要があって、

言葉を自分の感じた事と違和感のない形にするのに、
多少の時間がかかる時がある。

人によっては、ペラペラと自分の頭を通さず伝えられる人もいるのかもしれないが。

感じたことを違和感なく言語化する、

私はそこはとても大事にしたいと思っているし、

だから「何でも遠慮なく話せばいいのに」とか、「気を使い過ぎ」と言われるのは

その方の言ってる事もわからない訳ではなく、
ありがたいとも思うものの
少し苦惜しい気持ちになる。


私は、誰かに気を使っている訳ではないのだ。
むしろ自分に氣を遣っているのだ。

自分が出した言葉が、なるだけ自分の伝えたいことが伝わるように。

伝えたいことと違和感がないように。


そして、当然、他人にも氣を配りたい。

相手も受け取りやすいように。

そうでないと意味がないから、

空気の中から必死で言葉を掴み出すのだ。

(あと、気遣いのCPUのスペックが高い目。無理しないで出来る範囲が多い。別のスペック低いけど。)



カウンセリングの中では、
その人との関係の中で、
すぐに伝えることもあるし、段階を踏むこともある。伝え難いことをなかなかに厳しく伝える事もある。




氣を巡らす事。

それは私の『好み』なのだ。

私が、自分にとって心地よい氣遣いをしたいし、
私は、心地よく氣を遣い合うコミュニケーションがしたい。

大袈裟に『尊重し合いましょう』とかではない。

ただ、
『カレーでいい』のか、
『カレーがいい』のか、
そこに見え隠れする気持ちがある事には気付いていたいのだ。



はっきりと何か神霊的な力を持つ人はまた違うのだと思う。

これは自分の思考なのか直感と言われるモノなのか本人は分からないくらいの、

だけれども

人からは直感力がすごい、とか、
頭使ってないよね、
何でそんな事わかるの?と言われたり、

その直感をうまいこと伝える事が出来た時にクライアントさんと私のお互いのパイプがスッキリ通った感じがするしそれがとても嬉しい私の場合の話だ。

クライアントさんについては、依頼されているという「許可」そして「お互いの信頼」があるので、

一段踏み込んだことも伝えられる。
それこそがカウンセラーとしての矜持である。

だか、一般ではどうだろう。


直感の強い(と思われる)者が
直感を単純に使わないのは、

そうした時にそうでない人に理解されなかったりした経験からの学びなのだ。
何気なく言って疎まれたり、傷ついたと言われた経験からの学びなのだ。

折角なので、その直感はよく使いたい。

どうも私の直感は役に立つようなのだから。
本人が気づいていないことを引き出すきっかけになるようだから。

私自身も自分のその出し方を、
心地よく出したいのだ。
自分自身のためにも。

そして、
直感を持つものの直感を受けたいのなら、どうぞ、その氣遣いも受け取っていただきたいものなのである。

わがままかな。

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