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溢れ、戯れ、変化し、支配するコトバ

何かを考えるとき、映像や目の前起こる事象は言葉で整理されてる。

動画は1分間で180万文字分の情報量があると言われている。らしい。
(同時進行では、おそらく整理[消化]しきれてないけど)

言葉は考えるためのツールではなく、「考えている」そのものを支配する。

シニフィアンシニフィエという言葉の差異によるフィルターを通してしか世界を見ること、認識、思考できない。

「幸せ」「生き方」「自分さがし」といった概念も、すべてその時々の言葉の秩序付け次第で変わる。

例えば「ペン」に関して子供たちに問いかける。

それは何をするか     ⇒「書くモノです」
何を書くのか       ⇒「言葉や図を描きます」
言葉や図はどこから来るのか⇒「考えた脳からです」

「ペン」は「思考を表現するモノ」に変わる。

ただそれも、共時態(言語の在り方を時間軸に沿ってとらえる状態、時間や歴史の流れによって、変化を見ること。「過去」⇒「現在」⇒「未来」で言葉は変わる)、通時態(ある言語の特定時点における状態、変化ではなく、固定的な構造を見ること。「東京と大阪」「日本と他国」で言葉は変わる)によって、常に変化している。

コトバが変われば、世界は変わる。

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