三日坊主は明日があることの前提に成り立つ。

何か物事を続けられなくて苦悩するから、

・「なぜ、続けられないのか(克服する)方法」

・「確実に続けられる(習慣化する)方法」

・「むしろ、三日坊主を繰り返す肯定論」など、

やらなきゃダメだ、なぜ自分だけできない、みんなはどうしてるのか、

更に追い込んでしまう傾向にある。

所詮「三日坊主」は作られた言葉であって、存在しないのだから、気にしなくて、楽しめば良いのに。逆に作ってもよくて「1秒坊主」とか「10年坊主」とか、無限に作って薄めてしまうと、その認識は無くなるはず。

認識が無くなれば、数ある悩みの一つは解消されるかもしれない、、、


一方、唐突に開催された七輪の会(即席で出来たご近所ママ会?、なので、楽しい会話が終ったら、即時解散の会、笑)では、子供の話は必ず出る。その中で、「寝るのを嫌がって、寝落ちするギリギリまで遊んだり、ぼーっとしてると、いろんなところにぶつかって泣いたりして、それでも寝ることに対して抗う、寝てしまうと死んでしまう(自分が居なくなってしまう)感覚になるのだろうか」という話で、確かになー。と思った。

まだ言葉の認識・理解の少ない子供にとっては「三日坊主」は存在せず、「今」を全力で生きる。食べるのも、遊ぶのも、泣く事もすべて全身全霊をもって表現する。幼い子供達は、「明日」を知るまで、「今」しかないから。


さて、「明日」を知ってしまった私たちは、翌日「明日」が来ると信じているのだけど、どうして分かるのだろう。

寝てる間に、火事や地震など災害や、身体の異常によって、寝たまま死んでしまうがあることもホントは知ってるはずなのに、「明日は〇〇をしよう(しなきゃ)」と思って寝る。(根本的矛盾あるね)


「三日坊主出来て、良かったー!」と生に満ち溢れることが本来の姿なんだなー。と考えてみる。

「悲しむことはない。いまの状態で何ができるかを考えて、ベストを尽くすことだ」:サルトル


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