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答え、ではなく、応え

私たちの義務教育からはじまって、おそらく現在においても何かの問い(または疑問、知らない知識)が出て来たときは『答え』を探してしまいます。

まずweb検索、関連本をあさり、知人(友人)に意見を求め探す『答え』は概ね、ぴったりとはきませんし、ぴったり来てそうな勘違いも生みます。

そもそもの『問い』が間違ってるということも想定しなければならないのに目の前にある事象(現実)がいかにも正しくみえる錯覚からは逃れにくいのかもしれません。

テストには答えがセット、クイズにも答えがセット、明日が何日で何曜日かもセット、親子(家族)もセット、社会(企業)ルールもセット、、、様々な『答え』が統一した認識を持たせる市民性に育ちますが、

飼いならされた市民性は、なぜその出題なのか、カレンダー、メディアなどの在り方そのものを考えることを避けているようにも見えます。

決して楽ではありませんが、少しずつでも問い自体含め自分の頭で考える『応え』を模索する必要性を感じるこの頃です。



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