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法話|ミャンマー音楽の謎めいた世界へ

 「なんもない夜座」というご法座を、しばしば行っている。

 今回はこちら。

 ご法座なので、お勤めもすれば、ご法話もある。ご法話のご縁があればまず原稿を書く。ミャンマー音楽をご縁に、こんな内容になった。


法話


<御讃題>
清風宝樹をふくときは
いつつの音声いだしつつ
宮商和して自然なり
清浄勲を礼すべし


 ようこそのお参りでございます。ここ明行寺は、浄土真宗本願寺派という宗派のお寺です。阿弥陀如来さまを拝み、「南無阿弥陀仏」とお念仏を申します。

 今夜は音楽の会です。一説によると、私たち人間が音楽を好む性向というのは、本能的なもの、遺伝子レベルでゲノムに刻まれたものなのだそうです。先史時代、そのまたはるか昔、人類が発話によるコミュニケーションを獲得するより前から、音楽的なもの、踊り的なものがあったのだとか。そして、人類史上この二つがない民族というのは存在しない、ともいわれます。

 しかし、一口に音楽と言っても、そのありようはさまざまです。今や私たちにとって最も聞き馴染みがあるのは、いわゆる西洋音楽の文化に属するものでしょうが、お寺にいると、アジアルーツで日本古来の雅楽に触れ合うことも多いです。音楽の三要素と呼ばれるものは、メロディ(旋律)・リズム(拍)・コード(和音)ですが、西洋音楽に慣れた耳で雅楽を聴く時、最も不思議に感じられるのは、個人的にはリズムではないかと思います。雅楽には指揮者がいませんし、バンドでいうところのドラムやベースのようなリズム隊もいません。奏者が全員でお互いの音を聴き合いながら、ヌッとした独特の緩やかさで進行していきます。
 そんな違いのことをこんなふうに言うと、私は、西洋音楽と、日本の雅楽を判別できる人、ということになろうかと思います。

 そんな音楽ですが、これもまた一説によると、音楽と言語は相互に影響しあいながら発展、形成されていったのではないかと考えられているそうです。「近代言語学の父」と呼ばれる、十九世紀のスイス人、ソシュールという人は、言語を指して「差異のシステム」と呼びました。ギャップです。私たちは、言語を他者とのコミュニケーションであるとか、自分自身の思考であるとかに用いますが、言語は一体、どんな時に生まれるのか。
 たとえば、英語ではアナウサギとノウサギを区別して、前者をrabbit、後者をhareと呼ぶそうです。これらは、日本では両方ともウサギです。アメリカではこの二つを区別して呼ぶことに意味があるけれど、日本ではその差にこれと言った価値がない。この違いが、言語を生み出すギャップになります。最近見た映画では、日本語独特の言葉として「木漏れ日」というのが紹介されていました。木々の枝葉から溢れる陽の光、その留めようのない美しさに価値を感じた日本人は、そのさまに名前をつけたというわけです。このように言葉とは、その人、その土地、その文化において、何に価値や意味を見出しているか、ということを表しています。「差異のシステム」とは、日本風に言えば「分別のシステム」とも言える。

 考えてみれば、不思議なことです。今私はお話をしていますが、御法話というのも、もちろん言葉を用いて行います。ですが、浄土真宗において御法話は「仏願の生起本末を聞く」と言われます。阿弥陀如来さまが、自分自身の力ではどうやっても苦しみの命から抜け出すことのできない、拯いようのない私たちを、どうにかどうにか拯いとる、一人と漏らさず必ず拯うと願ってくださった、そのおいわれ、その由来を尋ねていくいうという意味です。阿弥陀如来さまは智慧と慈悲そのものとして私たちをおすくいくださいますが、仏様の智慧は「無分別智」、言語によって概念化し、分別するという方法では捉えることのできない智慧です。そこには主体客体といった境界もありません。ですが、実際に、限りある命を生きる私たちは、自分で考えたり感じたりすることしか、分からない。それ以外には何も分からない。自分と自分以外という、圧倒的な分別の世界の中で生きている。その私が、あれこれと言葉を尽くして、御法話をしています。とても不思議なことですね。

 そう考えてみると、私たちは「南無阿弥陀仏」とお称えしますが、このお念仏は、言葉ではありません。これは、私たちの世界の何事かの価値をあらわすものではないからです。阿弥陀如来さまは、声の仏さまとなってくださった。如来さまが私を呼んで、その証拠に私の口から「南無阿弥陀仏」と出てくださる、ただそのためだけに声という、音のかたちの仏さまになってくださいました。

 今夜、これからみんなで不思議な音楽を聴くと思います。多分、これまで私たちが耳にしてきたのとは違う、言葉では言い表し難い音楽です。言い表せない音、その点で、私の言葉なんかよりも、もしかするとお念仏の不思議を感じられるものなのかもしれません。どうぞ、不思議だなーと思ったら、「南無阿弥陀仏」とつぶやいてみてください。自分で考え、感じたことしか分からない、徹底して分別の権化である私たちですが、今夜、謎めいた音楽を聴いて、その私という分別の境界が少しずつ広がる、そんなご縁になりますように。

南無阿弥陀仏


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