見出し画像

ジェンダーな何かと私の歴史

 仏教とジェンダーについて、みんなで考え続けてみようというご縁を賜った。
 声をかけてくれたのは、20年来の親友であり、今やぶっとも(法友)となった、はがみちこさん。京都でアートメディエーターとして活動し、また真宗僧侶、布教使でもある。
 5年前、東京から九州の山間にあるお寺へと引っ越したばかりの頃、寺、九州、田舎、と男性優位社会のトリプルパンチをくらい、それまで暮らしていた価値観とのあまりのギャップに言葉を失った。当時、彼女に「これはいつか取り組まねばならない問題だ」と話したのを、覚えていてくれたのだと思う。
 お互い本名に「智」の字がつくので、活動ユニット名は「うぃずだむず」にしよう、とそんなことを最初にケラケラと決めて『今こそジェンダー!35の問い』は始まった。

 初回、自己紹介が必要だよね、ということで、ジェンダーと私の歴史をさらってみることにした。あらためて、この取り組みを行う背景として、ここで勝手に振り返ってみる 。


小5の発心


 小学5年生のある深夜、自宅に変質者が侵入した。同じ部屋で眠っていた母がすんでのところで運よく目覚め、怒鳴り声をあげたので私は事なきを得たが、それ以降、怖くて昼寝もできなくなった。怖いといえば幽霊やお化けの類だったが、そんなものより圧倒的に生きている人間が怖くなった。こと「お兄さん」くらいの年齢の男性が軒並み恐ろしく、突如、世界は「最後は暴力をふるえば勝てる男性」と「暴力と恐怖でコントロールされる女性」という構図になった。
 なんて理不尽なのだろう。子供心にキャパオーバーした憤り、悲しさ、無力感は混乱し、人間が男女のセックスでつくられるなら、この世に生まれてくることにはクソほどの意味もないな、と考えるようになった。人が生まれてくることに、私が生まれてきたことに、意味はない。
 それならば、私は全部自分で選んだことにしよう、と決めた。生まれた家も、両親も、この身体に生まれついたことも、全部私が選んでそうなった。だから、何かや誰かのせいにはしない代わりに、何にも誰にも支配させない。我ながら果てしなく気の強いことだと思う。
 その時、副次的に「宗教には一生頼まない」とも決めた。当時お世話になっていたピアノの先生が入信していた団体の集まりに出席させられ「名前を書くだけでいいから」と小一時間迫られた時も、決死の覚悟で手汗を握りしめ、サインしなかった。その頃は、とにかく強い人になろう、といつも思っていたが、強いとは何かを考えることはなかった。


キャンパスで幻


 小学校を卒業する頃には、法学部に行こうと決めていた。性犯罪の再犯率が9割を超えると本で読んで、そんな悪者どもをこの世から撲滅してやりたかった。その割に、法律とは何かを考えたことはなくて、それが善悪の基準を定めたものではなく、その間にある無限のグラデーションに落とし前をつけるための道具であることに気づいた時には、大阪の大学に入学して半年が過ぎていた。法曹界への興味を失うとあっという間に落ちこぼれ、大学は留年。悪者退治の旅は、始まらないうちに終わってしまった。
 しかし、悪者って誰か。大学の同級生や先輩の「お兄さん」は漏れなく関西弁を喋る面白い人たちで、酔っ払って暴力的になるシーンを目撃することはあったが、それはむしろ私自身にみられる傾向だった。ようやく、別に「私は正しくない」し、「お兄さん」=「性犯罪者(予備軍)」ではないと感得されると同時に、あらゆる境界線は良くも悪くも幻想なのだと考えるようになっていた。


大人はシュッと振る舞わねば


 とにかく自立。当時の東証一部上場企業に就職し、持ち前の気の強さも相俟って、猪のごとくがむしゃらに働いた(と自分では思っている)。渋谷のでっかいビルの中、マーケティング・コンサルタントという名の法人営業職を与えられ、有名大企業を顧客に鼻息荒く成果とキャリアを積み上げる戦いの毎日。
 組織の一員として、女性管理職の少なさ、営業職界隈の男性中心文化に横目をやったり、かと思えば指をさしたり、都合に応じて振る舞っていたように思う。そもそも、男性社員が来客にお茶をだすなどということは日常で、一般職という職種分けもなく、女性であるということを理由に職務上の区別を受けたことはない。機能しているかどうかは別として、男女間のギャップを生み出さない体制作りや、性的マイノリティに対する制度的フォローを含め、現状が十分ではないことを前提に社員のパフォーマンスを最大化すべく環境を整えようとする会社だったと思う。
 それでも、感情・感覚の面で「女のくせに」的、「これだから女は」的な扱いを受けることはしばしばあって、その度に先輩社員を捕まえてはビールを片手に息巻いていた。逆にいえば、そうしてガスを抜いてさえいれば、あとは「ビジネスの結果で黙らせてやる」というガソリンになった。
 大人になって、境界線と馴れ合うことも、見えないふりをすることも、身を守る術の一つになっていた。なんせ、正面突破には大きなリスクが伴う。誰しもそれがお作法、それが洗練と、時には歯噛みしながらやり過ごしていく。それはそういうものだった。


お寺ワンダーランド


 結婚して九州に移住し、義理の両親と共にお寺で暮らし始めた。すぐに、男性と女性の役割が明確に区別され、妻は夫に従属することを当然とする文化に驚愕した。非論理的かつ非効率かつ非人道的。前時代だ。なんだこれは。

「大きなお金が動くような判断にはやっぱり男の力が必要だし、お寺の中の細々した作業や台所なんかにはやっぱり女性の力が必要だ」
 誰憚ることなく、何の他意もなく、会議の場で述べられた意見。
「早く子供を産んでもらわないと。男の子を三人は産んでもらわないと。お寺も日本も潰れるから」
 誰だか知らない年配の男性が、出会って3秒で放ったご挨拶。
「お茶はやっぱり女性の手で淹れてもらったほうがうまいね」
 ある僧侶の方の、私が入れたお茶に対する感想。ちなみに40代。

 つらつらと書き殴ればキリがない。こうして挙げれば男性を責め立てる恨み節としか読めないかもしれないが、そういうことではない。女性を含めた全ての一人ひとりがつくってきた「今」なのだ。人類の半分で、全人類を支配するルールを運用することはできない。
 男尊女卑。すごいインパクトの字面だ。この言葉は私にとってずっと微妙な、少なくとも秘められた、波際に残る湿り気のような境界線だった。しかし、寺、九州、田舎において、それはまるで聳え立つ堤防で、必要があって存在すると言わんばかりに沈黙を強いてくる。もちろん、誰もが当てはまるわけではない。性は人の数だけあるといわれる時代、男女のみをうんぬんするのはどうかという指摘もあるだろう。ただ、言わせてほしい。令和とは思えない世界がここにはある。
 活動名を「codama」に決めた。旧姓が小玉なのだが、頭文字を大文字にしないことで固有名詞化せず、結婚しただけで声を奪われたことを、強制的に名前を奪われることにかけて抗議したかったのと、そんな人はたくさんいるだろう、と思ったからだ。

 お寺出身の親友に電話した。
「これはいつか取り組まねばならない問題だ」

 一体何がどうなっているのか。何から始めたらいいのか分からないまま、手探りでお書物を開き、終わりのない旅が始まった。


「戦わないけど逃げない」


 ある女性アーティストの言葉だ。
 女性であることを理由に仏師になることを諦めざるを得なかった彼女は、筆を握り、絵仏師のごとく創作を続けている。しなやかに強い、この言葉に学ぶことは多い。

 今、強固に具現化された境界線を前に、立ち止まっている。けれど、それは幻だ。自分の力だけで消し去ることはできない。かといって馴れ合いや見て見ぬふりをしては、息ができない。できるだけ多くの「当事者」たちと、みぎわに立って、みえる景色をあーでもない、こーでもない、と伝え合う。誰しも必ず間違う一人ひとりが集まって、やっぱり間違いながら境界線をでこぼことさせているうちに、それはやがて消えているのではないだろうか。その頃、私はもう死んでいるかもしれないけど、既に私が手にしている自由も、やっぱりそうしてここまで辿り着いてくれたように思う。

 宗教には一生頼まないはずが、僧侶と結婚、お寺で手をあわせてお念仏申す者へと育てられ、ご縁はまさに不可思議だ。今日、研鑽を積むことをよろこぶことができるのは、ときに私に代わって戦い、ときに私と共に涙する夫が、仏法に出遇うあたたかさを絶えず示してくれるからに他ならない。

 合掌、礼拝、お念仏。その時、誰も独りではない。独りではないという自由が、この先、私から離れることはない。


この記事が参加している募集

精進します……! 合掌。礼拝。ライフ・ゴーズ・オン。