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犀の角・第二夜 「有/無」 : 「わたし」は有るか無いか

 そのとき、まずどこからどこまでが「わたし」だろう。

 手のひらを眺めてみる。わたしの手。という名の物質。目に見えているし、触ることもできる。有るか無いか。当然、有るだろう。

 もう少し広げて、今度は鏡に全身を映して眺めてみる。わたしという人間。鏡を使えばすべてではないが大体見える。全体的に触ることもできる。有るか無いか。やっぱり有るだろう。

 さらに広げて、今わたしがいる場所を見渡してみる。目をやれば、見たいところは大体見られるし、触りたいものには触ればいい。その場所は有るか無いか。有るように思う。その場所にわたしがいる限りわたしはその一部であり、いなくなればそうではなくなるが、そこにいたという事実や記憶はわたしに残る。けれども、そこにいたわたしは、有るか無いか。ちょっとよくわからない。有るようにも思うし、無いような気もする。

 少し角度を変えて、直近で会話をした誰かのことを考えてみる。その誰かにとって、わたしは有るか無いか。話しているのだから、有る。しかし、その誰かにとってのわたしはわたしにとってのわたしではない。その意味で、無いともいえる。

 ここで、私の手に戻ってみる。目をやれば変わらず手はあるし、握ったり、触ったりすることができる。手を見ているのは、わたし。というより、私の目、視神経、からの脳みそ。手を触っているのは、もう片方の私の手。というよりもやはり触覚を司る私の脳みそ。わたし=手ではないし、私=脳みそかというと、そうでもない。どれも部分。その総体が「わたし」だとするとき、わたしは有るか。どこまでも広げることのできる、わたしというあらゆるシステムの名前が「わたし」なら、概念的存在としてのわたしに質量は無い。体重計に乗れば重さを測ることができるが、概念の重さを測ることに何の意味があるだろう。逆に、どこまでも小さく、細胞とか原子とか原子核とか、そういったものを集めて鏡で眺めることができるかたちになったものこそがわたしであるなら、面白いことに、およそわたしのわたしたる所以のような気のする、(例えばここにこうして書いているような)思考や感覚の産物は、わたしという物体とさほど関係が無いということになりはしないだろうか。

 おもむろに、図を書いてみる。縦軸には質量の有無。横軸には意味の有無。「意味」という言葉の指すものは曖昧なので、「それで飯が食えるか」というのを判別基準にする。「それで飯が食える」ものは意味が有り、「それで飯が食えない」ものは意味が無い。この4章限の右上にプロットされるものはとてもわかりやすい。家財一式や商売道具がこれにあたる。その下、右下の章限を代表するものは金。これに準じてあらゆる営為に資する知識やスキルがここにくるだろう。一方、左上は例えば家の中にある捨てるに捨てられない思い出の品の類とか、趣味のためのものなど。では最後、左下に置かれるものは何か。例えば、思い出そのもの。知識やスキルを手にするための過程にあった、どうでもいいような経験(カレーばかり食べている先輩の話が最高に笑えたとか)。猫を撫でる心地よさ。信仰。

謎の4章限

 また、わたしの手に戻ってみる。右上に、手という物を置く。掴んだり、危険を感じたりする。右下に、例えばパワーポイントの資料を作るスキル。ピアノを弾く指の記憶。運んだり、避けたりということの目的。左上はなんだろう。伸びた爪。人によっては、荒くなった肌理とか。そして左下。あたたかいものに触れていないときも、あたたかさを呼び起こすことができる感覚。「仏さまのお慈悲はぬくい」という言い回しが意味をもつために必要な前提。

 今度は、わたしという人。右上には全体的に身体、その機能、生理的な目的。右下に、わたしの飯の種になっている種類のあらゆる知識や経験、スキル。左上には好みだけど変なデザインの洋服、絵の具(わたしは絵描きではないので)。そして左下に、この文章を書かせる思考、家族をよろこばせるための計画、今は亡き祖父の教え、猫の保護。
 「わたし」を拡張することで、何についても分けようと思えば分けられる。家族。国家。地球。宇宙。

 わたしが有る。というとき、その意味は右上のわたし以外必要としない。けれども、最もわたしをわたしたらしめるものは、左下に置かれるもの、質量も無く意味も無いもの、ではないだろうか。それを有るというとき、そのかたちを自分でも確かめることができないくらい曖昧に揺らぐ、固定化することのできないようなもの。海で波を指して、有ると言った瞬間に海にまじって消えて無くなってしまうのと同じように、有るとも無いとも言えないようなもの。左下のわたし。

 この世に生まれるということは、とても不思議なことだ。生まれた瞬間には質量も意味もある右上の自分しかいない(自分にとって)。年を重ねるにつれて、他の章限の自分が増え、左下、質量も意味もないものが自分というものになっていく。では何がそうかというと、「これがそうです」と示すことは自分自身に対してすら困難で、果たしてわたしは有るのか無いのかというと、有るといえば有るし、無いといえば無いように思う。

 ただ、有難いことに、生きているわたしというもののどこにも、この4章限を作るための線は入っていなくて、右上も左下も分割されていない。同じように、家族にも、国家にも、宇宙にも、そんな分別はない。触ることはおろかみることもできない仏さまのお慈悲を、触覚によって得られる「ぬくい」という感覚で表すことだってできる。左下のものを、右上で感じとる。ちょうど、聴覚で聴き分けるメジャーコードとマイナーコードが、視覚による明るい、暗いに置き換わり、これがさらに気分のアップダウンを表すものにまでつながっていくように。右上、右上、からの左下。

 わたしたちは、認識するための線を引く。それは人間の命の営為として。その線はいつもちょっとずつ溶け出して混ざっている。それは人間の命そのものとして。


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日時:2024.4.19 (金) Open 20:00- / Start 20:30-
会場:渋谷Flying Books (東京都渋谷区道玄坂1-6-3 2F)
入場:<前売>¥3,500 (1drink込) /<当日>¥4,000 (1drink込)
チケット発売:2024.3.15 (金)午後7時より開始

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