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犀の角・第一夜 「ひとり」 : ④ 暴力の前置き(ふりかえり)

 終わってみれば、体感としては2秒くらいで、当日撮影された動画を観るまで何も書くことができなかった。自分の認識能力の低さに絶望しつつ、あらためて参加してくださったみなさま、開催に尽力してくださった師匠方、急遽の要請にも関わらず動画を撮影・編集してくれた前野氏に、心から御礼申し上げたい。大大大大大感謝。合掌。礼拝。(追ってこの日の動画を公開する予定)


セットリスト

 codamaのピアノ弾き語りライブパートは、アンコールを除いて5曲演奏させてもらった。内容は以下の通り。

1.三帰依文
全世界仏教徒共通、パーリ語の歌。「仏法僧に帰依します」という意。

2.Certain
個人的な南無阿弥陀仏(声の仏)への讃歌。

3.漂白の線
今春、往生された祖母の葬儀で、禅宗のご導師が教えてくださった「花を弄すれば香衣に満つ」のお言葉から。

4.是(これ)
下記の「実験」を行なった曲(詳細はそちらに)。

5.なずな
「時間」と「生きている」というのは、今という面積のない点なのだな、という。


実験

 会場となったFlying Books・山路さんのご提案で、同じ曲を2回演奏するという試みを行った。表面に歌詞、裏面に白枠の記載されたカードを配り、一度目の演奏の最中に思いついたことをなんでも良いので書き留めてもらい、それを数人にシェアしてもらう。私自身もどんな感じでその歌を作ったか伝えた後、もう一度演奏するというものだ。
 作品は、誰に受け取られることがなくてもつくることができる。作品は、コミュニケーションのためにあるわけではない。けれども、作品が介在する時空は自他(人に限らず)の境界を曖昧にすることがある、というのを体験したような気がする。境目は出現し続けるものであるにしても、その線の位置は変わっていけるのだろうと。

Flying Books店主 山路和広さん


▽ 当日この試みを行なった曲の詩


⼈は⽣まれてくるところからして、思うとおりからは程遠く、
⽣きているということは思いもかけずどうにもならないことばかり。
悔いること、悔いてもどうにもならないことが溢れている。
そんな⼈⽣において⼈は、誰しも常にいくらかずつ死にながら、
ひとり、願いながら⽣きている。
例えば、実家に帰って再び家族と別れるとき、いつも
「これが最期かもしれない」と思う。
しかし実際は、そういうお互いさまをすべての⼈が⽣きていて、それは
数えることのできない“今”という純粋な点において他にない。
⼈間は本当は“今”しか⽣きていない。
今ひとり在ることが、⽣きていることのすべてで、けれども
そんな⾵には⽣きられないところに、あらゆる願いが⽣ずる。
今、願わくば、これがすべてであるという願いが、その発露が
美しいことであるように。

企画段階でこの実験を検討する際に企画メンバーに共有したこの詩に関するcodamaメモ



トークゲスト 右から田代誠さん・福山智昭さん


乱暴な補足

 動画を見ていて、明らかに説明不足だったと感じた「自分自身への無頓着」という言葉について。

 自分以上に、自分に興味を持っている人はいない。私は私として生きていて、それ以外の何かを生きることはない。私の人生を生きることができる人は、私をおいて他にない。
 誰かの不在とは無関係に、地球は廻る。けれど、誰にとっても、自分という人間があって始めて、この世界は存在する。私の存在、私の言葉があって始めて、世界はこの世にあらわれる。

「自分自身への無頓着」

 この言葉は、なんの世界を生むのか。あるいは、世界のなにを生むのか。

 「ひとり」生まれ、死ぬ。そのことを考えないことは「自分自身への無頓着」であり、それはやがて暴力につながる、と話した。いつも自分のことを考えている私たち(自分が考えることは世界を構築することであり、それは家族や仕事や社会について考えることを含むと私は考えている)が、自分に無頓着であるとはどいうことか。

「汝、それなり」

「〇〇に非ず、〇〇に非ず、としか言えない」

「無我」

 なぜ、みんな、自己の真理を求めたのか。

 私の考える私が私そのものであったなら、人は「生死出ずべき道(※1)」など、求めることはないかもしれない。しかし、そんなことは原理的に不可能だ。一切皆苦。この世の全てが「苦」であるとする仏の教えは、なぜ2500年もの時を越えたのか。なぜ私たちは、自分とは異質なものを分別することで安心しようとするのか。あらゆる自己は、誰もそれに実体を与えることなどできないにも関わらず。また、どれひとつとして同じものではないというのに。
 自分自身への無頓着とは、自分を自分たらしめる存在の価値を、組織、社会、その他なんらかの水平的な世界で他よりも優れたもの、正当なものであろうとすべく「生まれついている」私たちが、その姿から目を背け、あたかも「自分自身は自分の思うようなものとして実在しているという幻想」を、確固たる事実かのように振る舞うことを指している。見たいものを見る私たちが最も見たくないものは、実のところ、自分を握りしめて手離せなくなっている、自分自身の姿ではないだろうか。
 これがやがて暴力へとつながっていくのはなぜか。ひらたく言えば、自他の分断が他を断罪するかたちで起こるからだろう。自分のことを、自分の考える自分として、自分の好きなところで好きなようにラインを引くのだから、当然だ。自分に囚われた自分の世界で、どこを切り口にしても良いのだ。とても安心だ。線から先の他者が自分を脅かすことは決してない。正しく優れた自分にこそ、他者をあれこれと断じる特権を与えられる。

 これを暴力と言わず、何と言うだろう。このプロジェクトを「犀の角」と名づけ、取り組む理由がここにある。

 無始無終、生まれかわり死にかわりするこの世界からの解脱を教え、仏に成ることを説くことの意味は何か。なぜ、仏教が生まれたのか。自分自身を見ないこの虚ろな命を、円なものへと取り戻すことはできるのだろうか。私の命が生きているということを、私自身こそが、この世界で。

 私たちは誰もが徹底して関係の無い「ひとり」だ。そのことを、広大な海にいっときあらわれる波のように感じてみるとき、「ひとり」は海そのものへとつながっていく。「ひとり」は決してネガティブな言葉ではない。かといって、ポジティブな言葉でもない。単純な事実だ。


称名


打ち上げに



(※1)浄土真宗の御開山、親鸞聖人の求道のありようを伝える言葉。なぜ生まれ、なぜ死ぬのか。死んだらどうなるのか。何もわからないままの命が、ただ始まりも終わりもなく生まれ変わり死に変わり、苦しみ続る生死の世界を離れ、拯われていくお念仏の道をあらわす。


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