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ずっと心にある痛みはいつか力になる時がくる。




自分自身の言葉の棘に驚くことがある。
口に出してみるとより一層鋭く相手に突き刺さる映像が浮かぶ。だったら痛みなんて残さず私の言葉を消してしまおうって思ってきた。
でもこれは決して私が優しいからではない。この言葉を伝えたところで痛みがわからない、慣れてしまってたり、感覚が麻痺していそうだなという人にはわざわざ言わないようにしているだけだからだ。その棘は放たれることなく私に見られている。
明らかに"合わない"人と言葉を交わしてお互いに一方通行な会話が聞こえてきたらそこから逃げる。そしてその"合わない"という直感が働いた人とは話さないようにしている。
自らシャットダウンすることを決めないと、どんどん何かが擦り減っていく。きっとただのたわいもない会話なのにとか、感じ悪いなと思う人もいると思う。
でも何よりも"そう思われないように"って頑張ってる自分が嫌いだった。嫌われることを恐れている自分が嫌いだった。今まで沢山自分で自分を傷つけた分『自分が自分を好きになるために』思考行動から動けるようになるにはシャットダウンすることだったり、"選ぶ当事者"になることはとても大切だと思う。
自己肯定感が誰かに認められることで保たれているのなら、それでいい。でも本当にそうだろうか。一度立ち止まってみて欲しい。これを自分の中でも繰り返している。
知らない間に擦り減っている心をまた傷つけているのは自分が言えなかった、言わなかった言葉の棘だと思う。その棘を捨てるのも少し痛みを我慢するのも、結局全ての答えは自分の中にある。本当はきっとわかっているんだよね。
『言ったところで伝わらない』は大切な人には使わない。使っちゃいけない。ボールを投げて返ってくる前にいなくなるよりもタチが悪い。
人と向き合うことって正直とても億劫で仕方ない。すごくわかる。元々ぶつかり合うのも嫌だからさっきみたいに自己完結して逃げてばかりだった。でも全てから逃げてはいけないことを知っている。知ることができた。そして言葉を飲み込むだけではなくて、自分の意志を見失わず、崩すこともなく、伝えたいことを隅々まで伝えられることができる力は、自分が信用できる人にだけ使えればいいということ。本気でぶつかって来てくれる人には例え嫌だとしても、本気でぶつからないといけないということだ。
棘を力に、痛みは力になる。
伝えたいときに伝えたい人に、伝えられるのならそれだけでいいと思う。人間が嫌いとかではなくて単純にたわいのない会話だったり、自分の価値観を人に押し付けてくるような人、自分の不得意からは一目散に逃げたい。逃げていい。だからその時のためだけに力を使えばいい、とっても極端だけどそうすることで自分のことだけに集中できるようになった。雑音が消えていった。
だから棘って簡単には消えないんだなって、忘れた頃に降ってくるから驚くことがある。ずっと心にある痛みはいつか力になる時がくる。本当にそう思う。



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