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【フランス生活雑記】モアレの夏  

※ご無沙汰しております。
  小説『黄昏のアポカリプス』の執筆どころか、note に文章を載せる機会
  さえ稀になってしまいました。
  非常に気ままなペースでの更新となりますが、
  もしご興味ありましたらお付き合いいただければ幸いです。
  なおここに登場する人物はすべて実在の人物ですが、プライバシー保護
  のため仮名を使わせていただきました。

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 先日、義父に招待され、夫と私はモアレ(Moiré) 地方を訪れた。モアレはローヌ県に位置する小さな村で、葡萄畑の広がる美しい土地である。
 いつになく暑い日で、長時間外にいると汗でシャツが肌に張り付くほどだった。けれど肺を押しつぶすような重苦しい湿度ではなく、頭上にはからりと晴れた空が広がっていた。




 その日集まったのは私達を入れて8名。義父のディミトリと奥様のミレイユ、ディミトリの旧友であるアルノーと奥様のキャロル、そして近所に住むダニエルと奥様のクレマンティーヌである。人見知りの私としては、こんなにたくさんの人々にいっぺんに会ってしまって大丈夫だろうかと前日から少し気が重かったのだが、その心配は杞憂に終わった。

 夫はアルノーとはすでに顔見知りで、小さなころに何度か会ったことがあるという。今回はなんと三十年ぶりの再会だそうだ。彼はにこにこして私達を出迎えてくれた。ぶ厚い眼鏡の奥で、黒い瞳が輝いている。どうやって次のギャグをしかけようかと企んでいるみたいに、口元は楽し気に緩んでいる。学校のクラスに必ずひとりはいる、いたずら好きのわんぱく小僧がそのまま大人になったのだろうというような風貌だ。
「じゃあ、まあ立ち話もなんだから庭のほうへ」と義父がいい、私達はテラス席へと案内された。




 さてアペロ(食前酒や軽いおつまみを飲み食いする時間)が始まった。藤棚の下でテーブルを囲み、ミレイユが庭で採れたというサラダとポテトを振る舞ってくださった。
「実は昨晩もパーティーをしたばかりなのよ」とミレイユ。
村でコンサートがあり、住人総勢150名ほどが集まったそうだ。フランスの小さな村でのパーティーは大変にぎやかなもので、とにかく飲んで食べて歌って踊って朝まで過ごすのだと、夫が説明してくれたことがある。
「私はどちらかというと内気な性格なの。でもディミトリが市長の助役をしているものだから、周りに自然に人が集まってくるようになってね。それにいったんパーティーが始まれば、楽しいわよ」
ミレイユはそう語った。彼女は小柄で、明るく大きな瞳をして、短い髪を栗色に染めている。てきぱきと料理を運ぶ姿は、どことなくしっかり者のりすといった趣がある。


  そのミレイユに姉妹のように寄り添って料理を手伝うのがキャロルだ。彼女は大の日本好きだそうで、私にたくさんの質問を投げてくださった。はじめはひとりだけ紛れ込んだ外国人の私に気を遣ってのリップサービスだろうかと思ったが、そういうわけでもなく、本当に心から興味を持ってくださっているらしい。天然パーマのくるくるした黒い髪と大きな瞳を持つ彼女はどことなく母に似ていることもあり、私は初対面のひととも思えぬほど親近感を抱いた。彼女はまた料理上手でもあり、その日みんなに振る舞ってくれたトマトのタルトは最高においしかった。


 それからディミトリがバーベキューを始めようと言った。実はその時点でかなりお腹がいっぱいだったのだが、私ひとりの腹具合でパーティーの雰囲気を損ねてはいけない。みんな嬉々として肉に飛びついた。彼らがソーセージを食べている間、私はなすのムースをいただいた。ベジタリアンである私のために、ミレイユが気を遣って用意してくださったのだ。たぶん招待する側から見れば非常に面倒くさい客だと思うのだけれど、そのようなことなど一切顔に出さず、温かくもてなしてくださる彼女の優しさがありがたかった。

 はじめは無口だったダニエル・クレマンティーヌ夫妻も、お酒が入るにつれ徐々に陽気になってきた。彼らはみんなの会話にひっそりと頷き、時折そっと感想を述べた。ああ、この人たちは確かに夫婦なのだなと思わせる、何か近しい雰囲気を持ったふたりだ。クレマンティーヌはベルギー人だそうで、アダモの「雪が降る」という曲を、台所仕事をしながらみんなで歌った。フランスの人間関係にはさらりとした風のような心地よさがあって、「年上だから」とか「外国人だから」などということは一切関係なく、その場のノリで楽しんでしまえるところがいい。




 食事の後、我々一同は庭に案内された。ディミトリが用意してくれたロッキングチェアにみな寝ころび、まどろみつつ話をした。目の前に道路があるというのに、生い茂るレモンの樹に隠されてまるで森の中のような静けさだった。なだらかな丘陵が、淡いグラデーションを伴って遠くの方に見える。それは映画で観たことのあるイタリアのトスカーナ地方を連想させた。

 不思議なもので、やはり男性は男性同士、女性は女性同士の小グループになんとなく別れてそれぞれの話をした。あそこの苗木は去年植えたものだとか、虫刺されにはティー・ツリーというエッセンシャルオイルが効くといったようなことだ。そういった細々としたいかにも女性らしい会話を、最近誰とも交わしていなかったことに、私はふと思い至った。

 やがて遠くの方に黒々とした雲が現れた。それは雷を伴って強い雨を降らせるだろうということは、誰の眼にも明らかだった。けれどみな魔法にでもかかったようにぐったりとして、誰ひとり動こうとしなかった。今年は去年に比べてうんと気温が低いとはいえ、夏の午後特有のまどろむような空気に勝てる者はいなかった。

 本格的に雷が鳴り始めるころ、やっと私たちは重い腰を上げ、部屋に引き上げた。そこからみんな立ち去りがたく、なんとなく空を見ていた。空は白く光り、時折龍のような稲妻が走った。彼らはボードゲームをしようと言ったが、夫と私は遠方に住んでいるので、残念ながらそこでお暇することとなった。帰り際にディミトリとミレイユがお土産を持たせてくれた。庭で採れたじゃがいもとレタス、そして卵だ。ダニエル・クレマンティーヌ夫妻が私達を家まで送り届けてくださった。彼らの姿が見えなくなるまで、私はずっと手を振り続けた。



 後日、いただいたじゃがいもの泥を洗い落しながら彼らのことを考えた。泥を洗うと、小粒でつるりとしたじゃがいもたちが、無邪気な子どものように現れる。じゃがいもというのは私にとってスーパーマーケットで買うものでしかなかった。幼稚園のころ「芋掘り遠足」というものがあったけれど、それは農家の方々が丹精込めて育てたさつま芋を、園児たちが勝手にやってきて掘り起こすということでしかなく(もちろん許可をいただいてのことではあるが)、自分で苗を植えて育て上げることとはまったく違う。私はそのようにして何かを栽培したことがないのだとふと思い至った。

 義父たちの生活は地に足のついた生活だと思う。「自然に囲まれた大きな家で自給自足の生活」というと優雅なイメージを抱きがちだけれど、実際はかなり忙しいらしい。庭の雌鶏たちの面倒を見たり、移し替えたレモンの樹の様子はどうだろうかと気をもんだり、雨で痛んだ屋根の修理をしたりと、いっときも休むことなくくるくると働き続ける。村の仲間を招いてのパーティーもあり、食事の準備や後片付けなども大変だろうと思う。

 私には逆立ちしたって真似できそうにない暮らしだ。どのみちこの小さなアパートには庭もないし、客人もめったに来ない。けれど今生きているこの空間を、もう少しだけ丁寧に彩り、感じのいい場所に変えていくことはできるかもしれない。そのようなことを思った夏の日だった。


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