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『アリスのための即興曲』Vol.38 Mとの対峙



初めての方は、こちらからどうぞ。


Vol.1  兎を追いかけて

前回のストーリーはこちら。


Vol.37 解けない暗号

 

本編 Vol.38 Mとの対峙


 20分後、僕たちは駅近くのインターネットカフェの受付にいた。年末だというのに店は盛況で、ペアシートしか空いていないという。中山伊織は少し困ったような顔をしたが、僕はそれでいいと答えた。体裁など気にしている場合ではない。

 僕たちは個室に案内された。清潔でこざっぱりとしてはいるが、大人ふたりには少し狭い。特に恋人ではない女の子と一緒にいるにはあまりにも密閉された空間だ。ソファシートに並んで座ると、中山伊織の首筋から花のような甘い香りがした。アリスの香水とは違う、別の女の子の匂いだ。自分の意志とは関係なく、喉元から唾がせりあがってくる。僕は咳払いをして言った。

「ごめんね、中山さん。こんなことに付き合わせて」
「ううん。それより、早く確認してみよう」
僕はパソコンを立ち上げた。ほの暗い部屋の中に銀色のひかりを放つ画面が現れた。メールサーバーを立ち上げ、「メールの新規作成」をクリックする。アドレス欄に例の英数字を小文字で入力し、末尾に《@g****.com》と付け足した。それが世界で最もよく使用されているドメイン名だからだ。件名は無題で、本文には「こんにちは」とだけ書いた。僕は祈るような気持ちで送信ボタンを押した。



 メールを送信すると耳が痛くなるほどの沈黙が訪れた。自分の心臓の鼓動と彼女のかすかな息遣いの他、何も聞こえなくなった。密度の濃い闇が部屋全体に充満していた。闇は重くのしかかり、僕の骨をきしませ、時間までも粉砕しようとしているみたいだった。僕は息をするのも忘れて何かが起こるのをじっと待った。

 どのくらいの時間が過ぎたのだろう。メール受信を告げる電子音がふいに鳴った。僕と彼女は同時に飛び上がった。震える指でマウスをクリックし、メールボックスを確認した。
 そこには一件のメールが入っていた。送信元には僕が先ほど入力した長ったらしいアドレスが記されていた。件名はない。メールを開封すると、フランス語で以下のように書かれていた。

Bonjour.Voudriez-vous parler avec M ?  

僕たちは顔を見合わせた。
「『こんにちは。Mと話したいですか?』だって。どうする?」
「とりあえず、話してみるべきじゃないかしら」
メッセージが届いたことにも驚いたが、それがフランス語とは想定外だった。祖母が見かけたという「美丈夫」を念頭に置いていたので、M は日本人だろうと思っていたのだ。けれど頭を切り替えなくてはいけない。僕はパソコンの言語設定を操作してフランス語入力キーを導入し、最初のメッセージを入力した。

- Bonjour, M. Oui, nous aimerions parler avec vous.
 (こんにちは、M。はい、僕たちはあなたと話したいです)

 メールを送ると、間髪を入れずMからの返信が届いた。二通目のメールは一通目と比べるとずいぶん長かった。僕たちがメールを送信してからわずかな時間しか経っていないことを考えると、Mはあらかじめ文章を用意していたのではないかという気がした。僕たちはフランス語上級者ではないので、その長いメールを翻訳サイトにかけて日本語に直した。すると次のような文章が現れた。


メールの交換にあたり、守るべきルールが三つある。

1「はい」か「いいえ」で答えられるような質問をすること。
 質問に対し、MはOuiはいNonいいえまたはJe ne sais pas.わからないと答える。
 このルールを守れば質問は何度でも可能である。

2「はい」か「いいえ」で答えられない質問をしてはいけない。
 もしそのような質問を三度以上した場合、ペナルティとしてMと話す権利は剥奪される。

3 Mとのメール交換中、いかなる事情があっても第三者の介入は許されない。
  ここでいう「第三者の介入」とは以下のことを指す。
 ・メールの内容を外部の人間に口外すること
 ・メール送信者以外の人間が、メール送信者を装ってメールの交換を行うこと
 ・政府、警察および医療センター等の公的機関が直接的または間接的に介入すること

このルールに同意する場合のみ、会話を開始する。
なお上記のルールを守れない場合、命の保証はない。

「でもMの言うことを信じていいのかな。もしMが嘘の答えを言ったとしても、私たちにはそれを確かめる方法がないじゃない」
メールを読み終わると中山伊織が言った。なかなか鋭い考察だ。僕が口を開こうとしたとき、何かが音を立てて弾けた。工事現場のドリルのようなものすごい音がし、電灯から火の粉が飛び散った。僕はとっさに中山伊織を抱き寄せ、机の下に伏せた。閉じたまぶたの裏で、赤や黄色のひかりがちかちか踊った。部屋の中には煙の匂いが立ち込め始めた。



 まもなくノックの音が聞こえ、店の制服を着たスタッフが部屋の扉を開けた。
「お客様、申し訳ございません。ご利用中のお部屋の電気系統がショートしたようです。お怪我はありませんでしたか」
「大丈夫です」僕は平静を装って答えた。
「一時的なものですので問題ありませんが、もしご希望でしたら他のお部屋への移動も可能です。いかがしますか」
「いえ、この部屋のままでけっこうです」
今部屋を離れたら、Mとの会話履歴が店側に露見する恐れがある。インターネットカフェでは個人情報保護のため、パソコンの電源を落とすとすべての情報が消去されることを僕は知っていた。しかし念には念を入れなくては。店員はこちらが恐縮するほど何度も頭を下げながら去っていった。

 


 僕たちの部屋の中でパソコンの画面が青白い光を放っていた。獲物を狙う獰猛な獣の息づかいのように、光は一定の間隔で強くなったり弱くなったりしている。Mはおそらくここからそう遠くない場所にいて、僕たちを見張っているに違いない。そしてすべてが意のままに進むようコントロールしている。Mに反論することは許されない。とりあえず言うことを信じるしかないようだった。

 僕は中山伊織に向き直った。見たところ怪我はないようだ。けれど彼女はすっかり怯え切っていた。顔は青ざめて蠟細工のように硬直し、瞳には涙がにじんでいる。雨に濡れた小鳥のように全身が震えていた。

「中山さん、今すぐ家に帰った方がいい。僕たちはMの出した条件に同意していないし、メールのやりとりは始まっていない。送信者ははじめから僕だけだったと奴に思わせればいい。君がこんなことに巻き込まれる必要はない」

僕は言った。それが彼女を守るための最善策だろうと思ったのだ。しかし彼女は白かった顔を真っ赤にさせて言った。

「坂本くん、ずるいよ」
「…は?」
「坂本くんはいつも涼しい顔してる。ドロドロぐちゃぐちゃしたところはちっとも顔に出さないで。アリスさんのことだって何も話してくれなかった。やっと教えてくれたと思ったら、中途半端なところで帰れだなんて」
「中山さん、何言ってるの?とにかく落ち着いて…」
「いやよ、帰らない。坂本くんが胸の中に抱えているものをさらけだすまで、そしてアリスさんを救い出すまで、私絶対に帰らない!」
彼女の声は春先の百舌もずみたいにそこら中に響いた。こんなに細い喉からよくこんな声が出るものだ。僕はあわてて彼女の口をふさいだ。誰かが僕たちの部屋の壁を叩き、うるさいと怒鳴った。彼女はびくっと肩を震わせおとなしくなった。
「本当にいいんだね?」僕は声をひそめて言った。
中山伊織は頷いた。その瞳は不思議な力を秘めた黒い石のようにひかっていた。
こうして僕たちはMとの会話を始めることになった。


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