【エッセイ】 存在する。死しても。
私が幼い頃、父は私を寝かしつけるため、即興で作ったお話を聞かせてくれた。布団に入った私の隣、床にごろんと寝そべり、片肘をついて、私に向かってぽつりぽつりと思いついたものから次々に口に出す。それは、私だけに与えられる父そのもの。私は、その時間が大好きだった。しかし、毎度しばらくすると、父はいびきをかいて寝てしまう。だからお話が最後までたどり着くことはなかった。父の声がふらふらし出すと、私は父の存在が薄れて行くようで不安になってくる。その内、片肘がかくんと崩れることもある。やがていびきに変わって行くにつれ、父が消えるようで心細くなる。
そんな時私は、
「お父ちゃーん」
と弱々しく呼ぶ。すると父は、
「ん? ああ」
と目を覚まし、また話そうとする。でもやはり眠いのだろう。しばらくすると、またいびきになる。
「お父ちゃん。えーん」
私は泣き真似をする。何としても父をここへ戻したいのだ。
私は、人が「いること」と「いないこと」の大きな違いを父によって教わったように思う。人を一瞬で安心から不安へ、心強さから心細さへ変える影響力。この存在感を意識しながら、私は成長していった。
私が33歳の時、父に癌が見つかった。余命は2年と告げられた。私は心配になった。父は間もなくこの世からいなくなる。父の意識は永遠に私の元に戻って来ない。父の存在を失って、私はどうなってしまうのだろうか。父のことではなく自分の心配をする。私はまだ幼いままだった。癌の転移に伴って、父の体調には大きな波が起こるようになった。本人は特に苦しさも口に出さず、淡々と治療を受けていた。
私は父の様子をじっと見ていた。私は父がもっと若かった頃のことを思い出した。私が小学生の頃だったと思う。何かの折に「死ぬ」ことが話題になった。 「お父ちゃんは死ぬことは怖くない。起こることに沿うだけ」 私はこの時、うそだ、と思った。いざ死ぬときになってそのように思えるはずがないと。
父の存在が、私の前にはっきりと浮かび上がったのは、父が亡くなった時だった。父はほぼ余命宣告通り2年半の闘病生活の後、最期を迎えた。父がもし苦しい闘病生活を見せていたら、もし死にたくないと最期まであがいていたならば、私はとても辛かったと思う。そうであったならば、父は今この瞬間、私のそばにいないかも知れない。父は自分の言葉通りに生き、その通りに死んだのだ。意外にも父が亡くなった時、私は心細くなかった。それは、父が私のそばに「いること」の証明だ。父の思想が私のそばに存在している。父は、幼い頃から父の存在そのものを私に語って聞かせた。私にとっては父の語りが父の存在となっているのだ。
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