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昔のカメラ女子

記憶は、「自分」の一部だ。多分、多くの人にとって。

某日のこと。十数年ぶりの片付けをはじめた。
年齢にあわせたスピードで片付けているので、進み方はのんびり。

押し入れの奥から、昔撮った写真のネガやスライドがでてきた。
もう30年以上も昔のもの。

というわけで、昔のカメラ女子の「遺産」をご紹介。

20210812-IMG_2827のコピー

右側の青っぽいネガはモノクロフィルム。左と真ん中のアンバー色のネガはカラーフィルム。
この左のネガに数字が書いてあるのは焼き増しの指定。当時「書いて消せるペン」がなかったので、ダーマトグラフ(通称デルマ*)と呼ばれる太めの色鉛筆のようなもので書き込んでいた↓。

モノクロフィルムは値段が安かったので練習用。はっきりとは覚えていないけれど、ヨドバシカメラで当時36枚撮りロール1本で200円台だったと思う。絞り具合(ボケ具合)などレンズのクセを知るのに使っていた。


現像も焼き付けも全部自分でやるような本格的なアマチュア写真家の方々は大きい(長い)フィルムを買い、手頃な枚数分にカットして自分でロールのなかに詰め替えていた。
売場にある大きなフィルムを横目に「かっこいいなあ」と思っていたのも懐かしい。当時のヨドバシカメラって家電量販店じゃなくて、その名の通り「カメラ」にまつわる大型専門店だったのだよね。

こちらはスライドをしまっていたバインダー式のファイル。

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レフィルは半透明なので光にかざすと写真が一覧できる。スライドの順番や縦横位置を入れ替えて並べて管理できるのは今のiPhoneの「写真」アプリと同じ(というかこっちの延長が「写真」アプリ、だね。)

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そのまま捨てる気持ちになれず、フィルムスキャナーを買ってデジタル化してから手放すことにした。



ネガフィルムやスライドを1つ1つ手に取り、コマを確認しスキャニングしていく。若かりし頃の友達、自分、両親、旅先の景色...。1つ1つがなつかしい。もしかしたら今はない景色なのかもしれない。

スキャニングを終えて、フィルムやネガを処分した時、「自分の一部」を手放せたようですっきりした。


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ところが。

スキャンしたフィルムやスライドをディスプレイで見ても、なんだかピンとこない。ただの画像データで、なんだか「他人事」のような気がするのだ。

その時、ふと気付いた。
私が自覚なくうっすらと大切にしていたのは「何を撮ったか」よりも
「どう撮ったか」だったということに。

アナログカメラの頃、写真を楽しむにはカメラ、フィルム、そして現像、焼き付けが必要だった。貧乏学生だったので、できるだけ少ない枚数で良い写真を撮ろうと工夫した。フィルム代、現像代、焼き付け代を捻出するのが大変だった。撮影するときも「ここだ!」というシーンを選び取っていた。

デジカメになって気軽にシャッターを押すようになった。何枚も撮影して気に入らなかったら消す。「気合い」の入り方が違う。

ディスプレイに映し出されるスキャンした写真は、他のデジカメと同じ「デジタルの写真」だ。フィルムやスライドという「いれもの」はすっかり消えて、残った「なかみ」。

フィルムやスライドが「自分の一部」のような気がしていたのは、この「いれもの」に当時の様々な心模様を載せていたからだった。
私はずっと「なかみ」、つまり「何を撮ったか」を大切にしていたつもりでいた。が、意外にもそうではなかったのだ。ネガやスライドを処分しなかったら、おそらくずっと気づかなかっただろう。「なかみ」はオマケだった。

そうした心模様に伴っている色とりどりの場面。
一般的には、それを「思い出」と呼ぶのかもしれない。

「思い出」は自分にまつわる記憶だから、自分の一部だ。
どんなに素晴らしい記憶だったとしても、「自分」にまつわるものにはそれなりの重量感がある。「大切なもの」であれば、なおのこと重量感は増す。

思い出が宿っていた、ネガフィルムやスライドのひとつひとつ。
処分してすっきりしたのは、自分の一部をキッチリと手放せたからなのだあと思う。

片付けとは、こうやって思い出をダウンサイジングしていくことなのだと思う。それは、記憶のダイエットをしているようで、とても軽やかだ。


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カバーにもなっているこの1枚。
スキャニングした写真のなかから。写真好き仲間のカメラたち。

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