2 地図にないまち・釜ヶ崎について
さて、ココルームの拠点のあるまちについて話しましょう。大阪市の中心部のすこし南にある釜ヶ崎は人工的につくられたまちです。1960年代から日本の高度経済成長を支えるために、全国から日雇い労働者を集め、おもに建設労働の雇用の調整弁としての寄せ場の役割を果たしてきました。0.62㎢のドヤ街と呼ばれる簡易宿泊所街は、あいりんという呼び名もあります。どちらも地図に記されてはいません。ドヤは宿の符丁。ほとんどが三畳一間の部屋で、最盛期には3〜4万人の労働者がいました。劣悪な労働環境で、警察さえも労働者を守ることはなく、そのため暴動があいつぎ、「恐いところ、行ってはいけないところ」と、メディアによってさらにネガティブなイメージが植えつけられます。それは今でも変わりません。
地図にないまち・釜ヶ崎は単なる呼び名ではなく、偏見や分断という釜ヶ崎的な状況をさしていることばだとわたしは思います。日本にも世界にもあちこちに釜ヶ崎のような状況があると考えます。きらびやかな建物の裏、一筋入った路地、あるいは閑静な住宅街の中、施設にも、そして、人の心の中に、そんな状況はあるかもしれません。
さて、1990年代、バブル以降の釜ヶ崎は徐々に仕事がなくなり、労働者も高齢化し、彼らは路上に押し出されました。90年代後半には2千人程が野宿状態となったそうです。地域ではそうした状況を乗り越えるためのさまざまな取組みが行なわれます。高齢者特別清掃事業は55歳以上の人が登録し、地域の清掃や草刈りなどを輪番で行ないます。日当一日5700円。一月に3度まわってくれば15000円。アルミ缶集めなどの仕事もしながら、なんとか暮らしてゆける金額です。シェルターは夜間緊急避難所。毎夕、あいりんセンター前で整理券が配られ、朝5時まで泊まることができます。建物の脇にシャワーとトイレ、大きな部屋には二段ベッドが並びます。こうした取組みは2002年に施行されたホームレス自立支援法という法律が根拠になっていますが、法律をつくるという運動もこのまちから始まったものです。
2008年のリーマンショックをきっかけに生活保護受給者が急増しました。ドヤが福祉マンションに転換し、およそ1万人近くが生活保護で暮らしていましたが、亡くなる人も多く、現在は8500人程となっています。これまで働いて暮らしてきた彼らの多くは急にやるべきことがなくなって、貧困ビジネスも拍車をかけ、アルコールやギャンブルにのめりこんだり、ひきこもりや病気がちになります。また看取りや孤独死の課題も生まれています。
そして、2013年頃から隣接する地域の再開発が完成しました。釜ヶ崎から徒歩10数分の場所に日本一高いビルやショッピングモールが建設されました。すると、釜ヶ崎地域にも中国人による投資が始まり、空き店舗やドヤが買われ、中国人が経営するカラオケ居酒屋やホテルが急増し、ました。フェスティバルゲート跡地には巨大なパチンコ屋と量販店が建設されました。釜ヶ崎の近隣低域でもホテルが増え、釜ヶ崎の日雇い労働者向けのドヤも改装し、ネットで予約できる安宿として賑わっています。これまで労働者向けの店しかなかったけれど、今では外国人向けの店舗も増え、地価が値上がりしています。それでも2016年暮れ、地域内でおよそ400人がシェルターを利用し、100人あまりが路上生活の状態にあります。そして、以前と変わらず刑務所から出た人や精神障害や発達障害のボーダーな人たちの流入もあり、地域内の課題は多層化しています。
現在、ココルームはピンチに直面しています。ゲストハウスとカフェのふりをして、であいと表現の場を開いてきましたが、活動の経営基盤の宿泊業はほぼキャンセル。カフェのお客さんもぐんと減って95%の減収です。こえとことばとこころの部屋を開きつづけたい。お気持ち、サポートをお願いしています