見出し画像

ソケリッサ✖️ココルーム         このからだひとつで生きていく。存在の表現、仕事、そして、子どもの人たちへ。   <前編>

東京で野宿生活をしている・してきた人たちとチーム「ソケリッサ」を組んで踊るダンサー、アオキ裕キ。釜ヶ崎で喫茶店のふりをしながらおじさんたちを迎える詩人、上田假奈代。それぞれに体や言葉で「生きること」を模索してきた二人が語りあう。

画像1

大阪市西成区釜ヶ崎の路地で。アオキ祐キと上田假奈代。2019年


1. ソケリッサ(新人Hソケリッサ!)までの道のり

ア(アオキ裕キ) 18歳で高校を卒業した時、僕の憧れはマイケル・ジャクソンだったんです。「ああいう踊りができるようになりたい」と東京へ勉強しに出てきて、そこからずっと流行の踊りに邁進しました。やがて踊りで食べれるようにもなって、タレントのバックダンサーとか振り付けのプロモーションビデオとか、流行のなかで活動していました。自分はこの世界でやっていくのかなという感覚がありましたね。
 2001年、もっと踊りを勉強したくてニューヨークに留学したんです。ちょうど3ヶ月ぐらい経った頃、同時多発テロ(*1)に遭遇しました。
 真っ青な空に白い飛行機が、人々の阿鼻叫喚とともに、憎しみとか悲しみとか苦しみとかが炎の鮮やかな赤色となって砕け散った時に底なしの無力さを感じてしまって。それまでの自分の世の中の捉え方やものの考え方がいかに表面的だったかを思い知らされた気持ちでした。

 それからしばらくは何をすればいいのかわからない状態が続いて。自分がやってきたことは、ダンスがうまくなりたいとか認められて大きな仕事をしたいとか、あくまでも自分本位であって、誰かや世の中のプラスになることはひとつも考えていなかったんですよ。
 それが悪いわけではないと思うんですよね。僕には見えないところで何かプラスになっているかもしれない。でもあれだけの「人間の脅威」というものにぶち当たって、もっともっと体や踊りや自分自身を掘り下げて考えていく必要をすごく感じて。
 しばらくはヨガや舞踏(*2)をしたり、日本人である自分の内側に目を向けたりすることに集中して取り組んでいました。
 そんな状態だった2005年、新宿の駅前を通りかかったらストリートミュージシャンが歌を歌っていたんです。そして、その横にはお尻を出して寝ているおじさんがいました。
 その景色を見た時に「あっ」と。今までは見過ごしていた景色かもしれないけど、自分のなかで何かすごくひっかかった感じがして。
 ストリートミュージシャンの周りには人だかりがあり、すぐ横にいる路上生活の人には誰も見向きもせずに通り過ぎていく。自分はお尻を出して人前で寝るという感覚は持ち合わせてないけど、自分にない感覚やそういう状況にいた体には何か自分が見失っていたもんがあるんじゃないかと感じたんです。

 それで、路上生活をしているおじさんをスカウトして一緒に踊ってみようと考えたんですが、自分も快活なほうではないので苦労しました。まず中央線の国分寺あたりから新宿まで向かう途中、一駅ずつ降りて路上生活の人を探して、いけそうだったら声をかけてみました。
 といってもお互いに言葉が続かないし、ほんの数分話せたらいいほうで。そんなことを数回繰り返して、やっと「実はダンスをやっていて、一緒に踊りませんか」と持ち出すと一気にシャットダウンされてしまうんです。
 それはそうですよね。向こうにとっては路上生活であることを人前で公言することになるわけだし、前例もないしね。半年ぐらいかな、持ちかけては断られての繰り返しで「どうしようかな」と思ってたところに、知人が『ビッグイシュー』(*3)のことを教えてくれました。それで当時は高田馬場にあった事務所まで代表の佐野さんに会いに行って「こういうことがしたいんです」と相談したんです。

 佐野さんは「面白い。でも、できるかどうかはあなた次第です。私はあなたが販売員さんたちにプレゼンする場を用意しましょう」と言ってくれました。月一のミーティングに参加したり、教えてもらった販売場所に出向いて話しかけたりして、最終的には「僕の踊りを見に来てください」と30人ぐらいに声をかけたら、5、6人が来てくれました。その人たちの前で踊りを見せて、「今踊ったのが僕の自由な姿です。みなさんの自由な姿もぜひ一緒に形にしたいと思います。よろしくお願いします」と伝えたら、全員が「やります」と言ってくれて。
 その時の踊りは、それまでにないぐらい緊張しましたね。(笑) それが2006年の終わりぐらいで、2007年に第1回目の公演ができて、ソケリッサの活動がスタートしました。

画像2

1996年、流行のダンスに邁進していた頃。

2.  ココルームまでの道のり

か(上田假奈代) アオキさんとほぼ同世代ですね。わたしは吉野の生まれで、母親が詩人だったので、幼い頃から言葉に親しんでいたんです。それは、話すのは苦手だったからでもあり。30歳代まで赤面症でした。人に思っていることを伝えられなくて、それで自分の感情を「書く」ことで、なんとかしてたんですよね。
 17歳の頃に勉強するために参考書を持って裏山に出かけたのは、5月の気持ちよい日。誰もいないので、ふと、古典の漢詩を木に向かって音読しはじめたんです。その時、声がシャボン玉みたいにしゅわしゅわってあたりに広がったんですよね。声が見えた。この時の感覚をのちに、「世界にみつけられた感じ」と名づけたんです。でも、思春期で恥ずかしいでしょ、誰にも話せなかった。
 そして、高校卒業して、美大の短大生になって京都の左京区で一人暮らしを始め、京大西部講堂(*4)に出入りするようになるんです。暗黒舞踏やパンクロック、前衛アート、映画、実験映像、テント芝居・・・いろんなパフォーマンスを手伝うのが面白くて、入り浸るんですよ。何年かして、自分も表現したいと思うんですね、でも、なにも得意なことがないなあと思って、思い出したのが、じぶんの詩を朗読すること。舞台にあがってみたんです。そして、朗読の場を自分で企画することにしました。
コンセプトは、表現の訓練をしていない「普通の人」が「自分の気持ち」を「自分で表すこと」。書いた紙をみながら朗読するならできるんじゃないかと思ったんですね。いまのココルームはその延長ですね。
 イベントを作るのは大変でしたから、朗読の社会化を企図して、ちいさな朗読の場を続けてみようと、ワークショップ形式で月に1回開くことにしました。赤字だと続けられないと思ったから、会場は喫茶店のテーブル。そのうち、自分の部屋を住み開きして、いろんな人たちと関わるようになるんです。
 30歳になる頃に転機がありましたね。「詩を仕事にするな」という母親の言いつけを守ってたんですが、朗読のブームが来て、私のまわりに若い人たちも集まってくれるようになったんですね。そのうちの1人が「僕、詩人を仕事にしたいんです」と話してくれたんだけど、私はまともに返事しなかった。無理だって思ってるから。ところが、数ヶ月後、彼が亡くなったと知り、聞くと、私と話した1週間後に飛び降りていたんですね。事情はいろいろあるようでしたが、あの時に「大変やけど、がんばりや」と言えんかったことを後悔したんです。私の限界を彼に当てはめてしまった。
 詩人の仕事ってなんだろう、仕事ってなんだろう、って考えました。命はそこにあり、小さくなったり欠けたりしないもの。それに気づくのは本人。詩人はその横に立っていることが仕事なんじゃないか、って。
 この国で生きている限り、だいたい仕事するじゃないですか、私は詩人の仕事をしたい、と思ったんですよね。
 勝手に「詩業家宣言」をして、1年後に大阪市から現代芸術拠点形成事業「新世界アーツパーク事業」(*5)に参画しないかと誘われ、場の運営を始めます。いまはないフェスティバルゲートという変わったビルの一室を自由に使っていいと言われて、舞台をつくり、喫茶店のふりをしたココルームをスタートします。2003年のことです。
 その後、新世界アーツパーク事業は頓挫して、2008年に隣まちの西成区釜ヶ崎(*6)の商店街の元スナックを借りて、ココルームを続けます。街を大学に見立てた「釜ヶ崎芸術大学」(*7)を開き、また引越しをして、同商店街で宿泊業も行っています。

17歳のコピー

17歳。写真家の橋口譲二氏にであい、撮影された。

3.  つきまとう「お金問題」

か アオキさんは、ビッグイシューの販売の方に踊りを見に来てもらう時、販売員のおじさんたちの交通費のことは考えましたか?

ア その時はビッグイシューのスタッフさんがついてきて、交通費を出してくれたんですよね。

か なるほど。よかったですね。ほんと、そこからですもんね。お金の話。2007年から公演が始まり、ワークショップは通年でされてるんですか?

ア 最初は公演ごとに稽古してました。今に比べたらはるかに稽古の頻度が少なかったですね。おじさんたちに払えるお金がひとつもなかったんで。今は公演に出た人に謝礼を払える形ができてますが、当時は『ビッグイシュー』を10冊あげるとか。稽古の間が空いて、お金にもならないとなると、どうしても「日常」が強くなります。稽古を一からやって努力するのがしんどくなる人が続出しましたね。

か なるほど。「お金問題」は大きいと感じられていた?

ア もちろんもちろん。1番大きいですね。どうしても自分の時間を稽古やリサーチに費やすことになるんで、借金で生活をするようになりました。で、カードが使えなくなって。ピークの時は300万、いや400万ぐらいあったのかな。ははは。だから自分も生活保護とろうかなと一瞬思いましたよね。

か それは他のダンスの仕事を断ってたから?

ア いや、だんだん他の仕事が来なくなりましたよ。

か 仕事より「そっち」に関心がある、アオキさんだとばれてきて。

ア そうそうそう。商業ダンスの世界はコンテがあって決まりがあって、そこに人をはめていく。でもソケリッサは逆で、まずおじさんたちがいて、おじさんが「生きる」ことをやっていく。ある意味、それまでやってきたことと逆だったんで。
 
か 私は若い頃から商業的なダンスにはまったく関わっていなくて、舞踏やコンテンポラリーダンス(*8)に親しんできました。学校でワークショップするとか、新しいジャンルを創出するべく、リサーチしたり、他分野の人と一緒にヘンテコなダンスをするとか。お金にはなかなかならないと思うけど、そういう仕事は増え始めたんですか?

ア 自分はコンテンポラリーな世界はまったく知らなかったので、最初は何もなかった。ソケリッサの活動が始まると同時に、どういう人がどんな活動をしているのかを一から勉強しました。その時にコンテンポラリーをやりたいと思ったわけじゃなくて、そっちのほうが自分にとっては「いやすい」環境だったのかなと、後になって思いましたね。

画像4

2020年9月せんがわWSソケリッサ!と踊ろう 写真:岡本千尋

4.  自分の創造性と出会うにはリラックスが大事

か そして紆余曲折ありながら10数年。早かったですか?

ア 今となってはね。でもけっこう、必死でしたよ。
 最初は福祉関係の人とか貧困に興味がある人しか来なかったんですよ。でも自分はいろんな人に観てもらって、いろんなことを感じてもらえるような分厚いものをやりたかったので、とにかく作品を面白いものにしようことを1番がんばりましたね。
 おじさんたちの未来を心配する人もいたし、「路上生活であることを公言して、あんた、責任とれんの?」と言われたこともあります。
 でも自分は、そういうことも踊りが面白かったらチャラになるという感覚だったんで、とにかく作品をよくしようと。今もそれは大きいんだけど。

か アオキさんは「作品を面白くする」ということがわかってるけど、一緒に踊っているメンバーはわかってるんですか?

ア わかってないよね。

か そうですよね。だから作品が面白くて、何度でも観に行きたくなる。けれど、メンバーにとっては、むしろ今となっては、踊っているそのものの瞬間だけでなく、踊りに向かっている時の「仲間感」であったり、あるいはソケリッサを楽しんでいるお客さんがいる場に行くことも続ける理由になっているのかしら、と思うんだけど、どうですか。

ア そうそうそう。おじさんたちの目線でいけば、ほんとそこですよね。今までの日常と違って、注目されて拍手をもらって、仲間がいて。楽しく一緒にご飯を食べたりね。そういう力はすごく強かった。
 だから「踊りがやりたい」と入った人もいるけど、仲間とのふれあいとか健康になりたいとか、女の子にもてたいとか、そういう理由で来てくれたし、逆にそこがすごくいいなと思いますね。

か ソケリッサのメンバーになることによって、新しい出会い方ができるということですよね。そして、ソケリッサを知らなかった人たちが観てくれた時に彼らメンバーとの出会いをしてくれる。それが踊りを面白くすると同時に循環していくといいなと思ってるうちに、あっという間に10数年が過ぎたんでしょうね。

ア おじさんたちはそうですね。あと、おじさんたちに考える暇を与えないようにしました。

二人 あはははは。

ア ワークショップのやり方もそうだし、あとはいろんなイベントをとってきたり、こっちから動いたり。そのあたりから稽古もだんだんと増やして。

か ある種、プロデューサー業を増やされたんですね。
 ちょっと釜芸(釜ヶ崎芸術大学)との話に入ってもいいですか? 2018年に釜芸でのワークショップをソケリッサのみなさんにお願いしましたよね。やっぱり最初はお互いに衝撃だったと思うんですね。

ア そうですね。釜芸って、とにかく先生がすごいなと。いろんな分野の、しかも著名な先生を呼んで形にしてるじゃないですか。
 どういう初心者であれ、一流の人が教えるってすごく大事なことだと思うんです。「初心者相手だから、経験の少ない先生でもいいや」ということじゃなくて。そこに釜芸の強さを感じたし、確立してるなと最初から思いました。 
「大学」というのもすごく面白かった。校舎のある大学じゃなくて、どこでも大学になり得ると。だからソケリッサのメンバーも気を遣わずにいられたんじゃないかな。
 自分のなかにある創造性と出会うためには、リラックスってすごく大事じゃないですか。緊張してるとどこかでバリアを作っちゃう。
 ソケリッサの稽古のストレッチでも、とにかく体をゆるめる。楽にする。すごく共通するものを感じました。
 おじさんたちは大阪へ行くと帰りたがらない。メンバーの平川さんもしんどいことがあると「わしゃ、大阪に行こうかなと口癖のように言う(笑)。ある意味、みんなの居場所でもあるのかな。「東京か大阪」という感覚はみんなすごくもっていますよね。

か 居場所ねえ。でも、都市だからなあ。都市って、いい意味でも悪い意味でも、たくさんの人がいるから気にならないもんでしょ。

ア でも釜芸とかココルームがないと、みんなそう思わないんじゃないかな。

か そうかな。

あ そうでしょう。愛情を確信できるから、みんな好きなことができる。旅ができる。人は「ここに自分の安心できる環境がある」と知ったら、いくらでも自由に開く。ココルームはそういう港のような場所だと思う。

画像5

2019年8月 釜芸ソケリッサ!ワークショップ 会場は大阪市西成区。

5. 船と灯台

か ソケリッサは仲間はいるけど、拠点というものはないですか?

ア そう、特定の場所はないですよね。

か 1艘の舟みたいな感じなんですか?

ア なんだろうなあ。まあ、自分は灯台的な。

か そうね、アオキさんは灯台だと思うんですよ。

ア まあ、みんなそれぞれ好きに舟で。

か ひとり1艘ね。(笑)前に2人で話してた時、あおきさんは、ほんとは自由でいたいんだって言ってましたよね。「稽古に行きたくない時は行きたくないんだ」って。「でも、鍵を開けないといけないから行くんでしょ?」と言ったら、「言いだしっぺだからね」とペロッと笑ったのね。あの話がすごく面白くて。

ア まあ、しょうがないですよね、言い出しっぺは。逃れられない部分はある。かなよさんもそうじゃないですか。

か そうなのよね。灯台。言い出しっぺで。その代わり、見たことのない景色を見させてもらえるからね。

ア 1番見える場所ですからね。

か それは喜びでもありますよね。ところで、灯台は拠点ではあるけど、塔ですものね、1人のイメージです。拠点となると、複数人が寄れる広さがありますね。

ア そうそう。それからやっぱり拠点に憧れますね。掘っ立て小屋でいいんですけど、拠点が欲しい。自分のやってることをもっと分業したい。アートアネージメントできる人も常にそばにいてもらえるのがベストだと思う。
 おじさんたちの中にもパソコンのスキルのある人たちがいるからね。メンバーの制作的な面が生かせることにもトライしたい。そうしたらお金ももうちょっと生み出せるような気もする。

か 映画「ダンシング・ホームレス」(*9)の中でも印象的な場面がありますよね。Yahooコメントで「踊れるならまず働け」みたいな。

ア 一応「受け止めます」と返しましたが、今はお金は一応発生して、仕事になってますからね。増えるか増えないかだけ。
メンバーにお金が発生することによって、責任感をもったりというのはあまり見えないですね。良くも悪くも。ただ、やっぱりお金をもらえるのはうれしいし、生活が楽になることは喜んでいるけど。

ダンシングホームレス_メインビジュアル

映画「ダンシング・ホームレス」の一場面

画像6

ソケぶつ ことばの板

    後編へつづく

注釈

*1 同時多発テロ 2001年9月11日(火)の朝、イスラーム過激派テロリスト集団アルカイダによって行われた、アメリカ合衆国に対する4回の協調テロ攻撃である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%90%8C%E6%99%82%E5%A4%9A%E7%99%BA%E3%83%86%E3%83%AD%E4%BA%8B%E4%BB%B6

*2 舞踏(暗黒舞踏) 日本の舞踊家土方巽を中心に形成された前衛舞踊の様式で、前衛芸術の一つ。日本国外では単にButoh(ブトー)と呼ばれ、日本独自の伝統と前衛を混合したダンスのスタイルとして認知されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9A%97%E9%BB%92%E8%88%9E%E8%B8%8F

*3 ビッグイシュー
市民が市民自身で仕事、「働く場」をつくる試みです。2003年9月、質の高い雑誌をつくりホームレスの人の独占販売事業とすることで、ホームレス問題の解決に挑戦しました。ホームレスの人の救済(チャリティ)ではなく、仕事を提供し自立を応援する事業です。
https://www.bigissue.jp/


*4 京大西部講堂
京都大学吉田キャンパス西部構内にある木造平屋建ての建物。自主管理、自主運営による表現の場が確保されることこそが、文化にとってあるべき姿」と考える団体・メンバーが、西部講堂連絡協議会(西連協)を構成し運営している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E8%A5%BF%E9%83%A8%E8%AC%9B%E5%A0%82

*5 現代芸術拠点形成事業「新世界アーツパーク事業」
2002年に「新世界アーツパー ク事業」が開始された。浪速区新世界にある娯楽施 設フェスティバルゲート3)の空き店舗スペースの管 理運営を、大阪市がアートNPOに委託するという形 (公設置民営)で、「現代芸術に関するNPO活動を複 数点在させ、都市の日常にアートコミュニティを築 く」ことが目指された。
引用「行政とNPOの協働 ――芸術創造の現場から」  吉澤 弥生・櫻田 和也
http://kakeiken.jp/old_kakeiken/jp/journal/jjrhe/pdf/79/079_04.pdf

*6 釜ヶ崎
大阪市西成区萩之茶屋1~2丁目あたりをさす地域通称。あいりん(愛隣)地区という呼称は、1966年(昭和41年)5月に行政機関と報道機関における統一名称として誕生したもので、概ね釜ヶ崎の別称と言ってよい。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%9C%E3%83%B6%E5%B4%8E

*7 釜ヶ崎芸術大学
大阪市西成区の釜ヶ崎で2012年から開催されている、誰もが参加でき学び合うことができる市民大学。NPO法人ココルームが運営する。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%9C%E3%83%B6%E5%B4%8E%E8%8A%B8%E8%A1%93%E5%A4%A7%E5%AD%A6

*8 コンテンポラリーダンス
1960年代以降の前衛的なダンス。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%B3%E3%83%9D%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%80%E3%83%B3%E3%82%B9

*9 映画「ダンシング・ホームレス」
監督撮影:三浦渉 ソケリッサのドキュメンタリー。
https://thedancinghomeless.com/

+++

プロフィール
アオキ裕キ(振付家)

兵庫県出身。テーマパーク、タレントのバックダンサー業などを経て 2001年NY留学時にテロと遭遇。帰国後、自身の根底を追求。「今を生きる身体から生まれる踊り」を求め2005年路上生活経験者と集い、ダンスグループ「新人Hソケリッサ!」を開始。コニカミノルタソーシャルデザインアワード2016グランプリ受賞。https://sokerissa.net/

上田假奈代(詩人・詩業家)

1969年奈良県吉野生まれ。3歳より詩作、17歳から朗読をはじめる。「ことばを人生の味方に」と活動する。2003年大阪・新世界で喫茶店のふりをした拠点アートNPO「ココルーム」をたちあげ、2008年西成・釜ヶ崎に移転。2012年まちを大学にみたてた「釜ヶ崎芸術大学」、2016年「ゲストハウスとカフェと庭ココルーム」開設。大阪市立大学都市研究プラザ研究員。 2014年度 文化庁芸術選奨文部科学大臣新人賞。 2021年から堺アーツカウンシルPD。http://cocoroom.org/


編集 社納葉子

助成:大阪市、公益財団法人 福武財団

この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?
気軽にクリエイターの支援と、記事のオススメができます!
ココルームの日々

現在、ココルームはピンチに直面しています。ゲストハウスとカフェのふりをして、であいと表現の場を開いてきましたが、活動の経営基盤の宿泊業はほぼキャンセル。カフェのお客さんもぐんと減って95%の減収です。こえとことばとこころの部屋を開きつづけたい。お気持ち、サポートをお願いしています

ありがとうございます!
地域に根ざしながら、さまざまな人々とであい、表現とまなびあいの場をつくるココルーム。暮らし、仕事、関係性をみつめ、そして社会と接続する場として活動しています。であいがたくさん生まれるよう、喫茶店のふりをしています。