あたたかい看送り
旦那が身体を脱いで逝った場所は、緩和ケア病棟の個室のベッドの上だった。
基本在宅でわたしが育児をしながら旦那も看ていたのだけれど、検査のため病院に出向き、そのまま入院となり、約一週間の入院で旅立った。
病院は当時お世話になっていた在宅医療ドクターが、受け入れ先を探して病院にかけあってくれた。
在宅医療ドクターはとても親身になってくれる方で、わたしが不安になったとき夜中でも電話につきあってくれた。
娘の育児と旦那の介護は、ベクトルは違うが一人では生きていけない2つの命を守ることで、わたしには気の休まる暇はなかった。
義実家は近くに住んでいて、こちらの都合を考えず突然訪ねてくることもあった。
「逃げ出したい」「わたしには荷が重すぎる」、何度そう思ったことだろう。
ただ、終末期医療に関わってくださった医療機関の方々はありがたくもとても素敵な方々で、旦那の命をいっしょに看守ってくれて、大変心強かった。
わたしの負担を気遣ってくれた。
緩和ケア病棟には当時の自宅から赴いたのだけれど、民間の介護タクシーを使った。
車椅子で乗ることのできるタクシーだ。
それでも旦那の身体の負担は大きかった。
緩和ケア病棟の病室は、家族で最期の時間をすごすことにとても適したつくりだった。
健康食品や食事療法も尊重してくれた。
実際には旦那の食欲はかなり落ちていたから食事療法どころではなかったけれど、側で旦那の食したいものを用意してあげられるのは、大変だったけれど、ありがたかった。
可動式の畳を旦那のベッドにひっつけて、娘と3人で川の字で寝た。
新型コロナウィルスの影響が真っ只中の当時、付き添い入院を許可してくれた病院には感謝している。
ましてや娘を連れての付き添い入院だ。
当時そんなことができた病院や施設がいくつあっただろう。
面会制限はあったから、旦那とわたしと娘、3人で過ごす時間が家にいるときより長くなり、つまりは義実家の突撃訪問がなくなり、家にいるときより家らしく過ごせたように思う。
それでいて旦那が息を引き取るときは義実家も立ち会えたのは、ありがたかった。
すぐに部屋から出ていくことはなく、病院からは「家に帰るとお葬式や何やらでゆっくりできないでしょうから、今のうちにお別れをゆっくりしてください」と言われた。
旦那は担当の看護師さんにお風呂に入れてもらい、穏やかな顔に整えてもらった。
整えてもらったから穏やかな顔になったのだろうけれど、本当に穏やかで眠っているようで、この世に未練があるような顔には見えなかった。
終末期医療は看取る側のその後の人生に大きな影響を及ぼすように思う。
実際、わたしは旦那の終末期にあたたかいイメージをもっている。
渦中にいるときはとてもとても大変だったけれど、一周忌を終えた頃には「なかなか味わえない貴重な体験をさせてもらったな」なんて思っていた。
わたしにとっては大変な日々だったが、もちろん、周囲に助けてもらってはいた。
わたしは当時自治会の仕事を引き受けていて、その影響でご近所さんに知り合いが増えていた。
面倒見のいい民生委員さんがわざわざ自宅へ訪ねてきて連絡先を教えてくれて、実際何度か娘を預かってくれた。
自治会長さんと共に公民館で娘をみてもらったこともある。
わたしの学生時代の友人家族が隣町にいて、娘を預けたこともある。
加えて、わたしの親戚が隣町に住んでいて、娘を預けたこともある。
わたしの実家は車で一時間以上かかる距離にあったが、両親に娘を預けたこともある。
旦那が他界後は、保育士を仕事としているご近所さんに、娘を預けたこともある。
そして、わたしに何かあったときに娘にすぐに援助の手が差し伸べられるよう、役所には現状を報告していた。
ただ、刻一刻と旦那の病状は変わるし、娘は日本語がまだ通じず動き回る時期、助けを求める連絡をする途中で何かが起こるような毎日。
よく乗り切ったものだと思う。
「逃げ出したい」「わたしには荷が重すぎる」そう感じていたことを乗り越えたことは、その後わたしの自信になることとなる。
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