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誰かを嫌いになる時、誰かに嫌われる時

あけましておめでとうございます。

ぼちぼち、またここでも書いていこうと思いますので、どうぞ今年もよろしくお願いします。

さて、今日は「嫌われる」ということについてちょっと思ったことがあるので書いてみます。

嫌われるってすごくイヤなことだけど、人生で避けられないことでもあると思う。

身に覚えがないのに急に避けられるようになってしまった、という経験ってきっと誰にでもある。

逆に、ある人を嫌になって徐々に避け出した、なんてことも多分みんなある。よね??

もちろん私も両方ある。

で、この「嫌われる」ってのは、ある種、お役目なところがあるよなと思った。

誰かをイヤになる時、人は必ずそこに自分の何かを投影している。

私が自分の起業がうまくいかなくて「どうしたらええんや〜」と本当は泣きたいのを堪えてがんばっていた時、姉の弱音を吐く態度が耐えられなかったのもそれだ。

そのことについて書いた記事↓

この時、姉そのものを嫌っていたのではなく、本当は自分の弱音を嫌っていた。

誰かを嫌いになる時ってだいたいこの仕組みなんじゃないかと思う。

否定していたり嫌っていたりする自分の一部を外に見ること。

それが何かを嫌うという行為だ。

「私は絶対あんなことはしない!(あれは私ではない!)」

そう思う時、自分の一部を否定している。

でも、そうやって人は自分の一部を切り離して外に見ることで自分を守っているところがあるんだと思う。

だとしたら、嫌う対象となる人物はとてもありがたい存在ということになる。

「嫌わせてくれる」って尊いのかもしれない。

てことは、自分が嫌われることがあったとしてもそのお役目をやっているだけのことかもしれない。

これは自分の内面でも同じだ。

自分の嫌いなところがあるのは悪いことじゃない。

嫌いの度合いが強ければ強いほど、そうじゃない方に向かおうとする力も生まれる。

「自分の一部を遠慮なく嫌ってもいい」

そう思えると、また一つ楽になる。

そして、変に責めるのではなく、「自分のこういうところは嫌い」と真正面から認めることができるのは、自己信頼の証にもなると思う。

嫌いなところはあるけど、それも含めて私は私でいられる。

そう思えるようになってから、私は自分にも姉にも桁違いに優しくなったと思う。

誰にも嫌われず、誰も嫌わない、なんていう夢の世界より、
「嫌うことも嫌われることもあるけど、それでいいんだよ」
と思える方が、よっぽど地に足がついててリアルに自由だと私は思っている。

だからこそ、嫌う側に立つ時も、嫌われる側に立つ時も、こんな観点を持っているとちょっと楽かなと思う。

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