なんにもなくてもいいことへの憧れ その1 幼少期〜

タイトルの通りだが私はある程度の歳になってから、なんにもなくてもいいことへの憧れをもつようになった。
なにもなくてもそのままの存在を許される、これができないあれができないからと卑下することをせずに、そのままの存在を唯一の"ある人"に認めてほしいと願い続けていたのである。
それだけを聞くとすでに何かを持っているかのように思えるが私自身とくに秀でた何かがあるわけではない。

ただ、許されることに憧れがあった。

誰に許可を得ずとも人は生まれながらに人権が備わっているが、私は幼い頃からずっとどこかで私の存在ただそのものを許されたいと思っていた。
その感情は自分の脆さや弱さにあたるのだがそれに気がつくのはだいぶ後になってからだった。

そして私は誰から私の存在そのものを許し認めてほしいと願い望んでいたかといえばその対象は母だった。そう長い間思いこんでいたが、実のところ違っていた。
私は自分で自分のことを認めたかったのだと後々になりようやく気がついた。
母に認めてほしいと思っていることに気がついたのは幼い頃だが、その対象が自分だったことに気がついたのはごくごく最近のことだ。

母に認めてほしい。いやそうではなく私自身が自分のことを認めていない、そう思うようになったのは私の育った環境にあるのだろう、と思う。



私は安心や安全とは程遠い家庭で育った。正確に言えば5歳までは暖かく穏やかな家庭だったと思う。
しかしそこからゆるやかにまたある時期を境に家庭の環境は一気に急転直下し崩壊した。
そのほぼすべての原因や元凶は父にあるのだが。

母は子どもがいることで父(これ以降はあの男、もしくはおっさんと書く)や家を捨てることもできずにどこかで一人自分の人生を生きる選択をできなかった。子ども二人を育てるために家事も仕事もすべて母が行っていた。そんな母はなぜか五つ上の兄には優しく、私には厳しかった。

兄から暴力をうけることは頻繁にあったが、それを母に伝えても、お兄ちゃんは優しいんだよ、そう言うだけだった。どこが?としか当時は思わなかったが、まあ今でもそう思う部分は変わらない。まじでどこが???
あれは優しいのではなくただ気が弱く小心者なだけだ。


話を戻すと、先程も言ったように保育園に通っていた頃まではお金持ちではないが貧しさにあえぐほどでもなく、ささやかな暖かい穏やかな家庭だったと思う。
そして私は母のことが大好きだった。


私が6歳の頃に、家の一番そばにあるバス停まで保護者がお迎えに来る日というものが1日だけあった。
バス停までは同じ学校に通う友達と帰ったが、いざバス停に着くとそこには友達のお母さんやお父さんはいるのに私の親だけは見当たらない。その状況が恥ずかしくそして悲しかった。
その気持ちを友達に悟られたくないと思った私は、誰に聞かれたわけでもないのに「お母さん今日風邪をひいちゃったのかも。」と説明した。
べつに恥ずかしいことはないのだが、子どもの私は友達から同情のような優しさから「多分体調崩しちゃって来られなかったんだよ。」のような言葉をかけられるのを避けた。


家に帰宅しあの男から、今日は母が体調を悪くしたためバス停まで行けなかったと聞いた。私は、道も知ってるんだしバス停から近いし一人で帰れるから大丈夫だよと言ったのを覚えている。
今考えれば、おっさんお前も保護者じゃねーかお前が迎えに来いよ!と思うが当時は疑問にすら思わなかった。それくらいあの男が当時から家庭にほぼ関わりのない人という認識だったのだろう。

二階の寝室へ行くと、布団から体をおこした母が私に申し訳なさそうにしていたことを覚えている。私は、道もわかってるんだから大丈夫だよ、と健気にふるまったがどうせ心の内はバレていただろうな。
そうやって心配したり健気にふるまったのも母のことを大好きだったことにほかならないが、もうひとつは申し訳なさそうにしていた母の表情を見て心が強く痛み苦しかったからだった。素朴で単純な子どもの優しさだったと思う。

穏やかな母の表情、私にむけられた優しい態度、一緒に遊んだ暖かい記憶、そんな記憶がまったく残っていなければ大人になるまでここまで苦しむこともなく割り切っていられたのかもしれない。
ああ、そんなこともないか。それはそれで違う理由で結局悩んでいただろうな。ってことにしておこう。


家庭は頭のネジの外れたあの男による行いによってゆるやかにだんだんと不安定になり、そうして私が小学5年生の頃についに崩壊した。


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