多様性を受け止めるとは

今まで気にならなかった言葉が、ふと気になる、そんなことありませんか。

「多様性を受け止める」というフレーズを聞いて、いつもならそうだな、となっていたものが、ふと気になる何かを感じました。

多様性って受け止めるものなのか?誰が?誰の?何の?

「受け止める」と「受け止めない」にはその人の判断があるのでしょうか?

ジェンダー、肌の色、民族的出自、障がいのあるなし、この間様々な話を聞く中で、多様性というものの幅の広さや奥の深さをより強く感じています。

多様性を受け止める、といった際、受け止める人は「多様性」を持っている人なのでしょうか、持っていない人なのでしょうか。

マイノリティであることを多様性というなら、マイノリティである人(私)が自身のマイノリティ性を受け止めることを「多様性を受け止める」ともえます。

マジョリティである人(私)が胸を広げてマイノリティである人(彼、彼女、彼ら、あなた)を「受け止める」という構図にも見えます。

または個人のことではなく、そこにいる人々が、自分たち(We)が多様性を持った集団であることを全体で受け止める、ということにもとれます。

「多様性を受け止める」といった際に、多様性を生じている人(マイノリティ)と生じていない人(マジョリティ)に分けて、マジョリティである私たちが、多様なマイノリティを「受け止める」といっているのであれば、そこにはなにかしら上から目線のようなものを感じます。

「受け止める側」「受け止められる側」という非対称性も生じているように感じます。

また、自分の中に多様性がないと思っている人が、ほんとうに多様性を「受け取める」ことができるのでしょうか?

多様性を受け止めるためには、まず多様性とはなにかについて理解する必要があります。多様性についてなにがしかのことを知っているから受け止められるのであって、知らないことについて受け止めるというのは至難の業です。理解がなければ、受け止めていないという自覚すら生まれないのではないでしょうか。(人間関係でありがちな「わかってるよ」「全然わかってない!」という応酬のように…)

「多様性を受け止める」という文言だけでは、決して受け止めたことにはならない。これはインクルーシブ教育を語る上でよく警鐘を鳴らされるところです。

多様性を理解できているのか?という問い直しが常にそこにあるはずです。そして、その問いは、自分自身の内側へも向かわなければ、本当の意味での多様性の受け止めには至らないのではないでしょうか。

私たちCOCONIの活動についていえば、進路の多様性をサポートしよう、という際、まず、多様な進路とはなにか、を理解しなければ、これをサポートすることは不可能です。

私たちの課題は、多様な進路選択とは何か、について、これにかかわっている大人一人一人が自分自身のこととして、また私たち社会全体のこととして、悩みながら探求していくことです。私たち一人一人がこの社会の多様性の一部であることを認識しながら。

これからも応援よろしくお願いします。

(た)

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