家族は支援者ではなく、家族。

 ひきこもり支援。家族支援が大事と言われる。本人は自ら相談に来ない。一緒に暮らす家族が心配し、相談に訪れる。家族を支えることが本人を支えることになる。そんな考えから、そう言われる。
 その話の中で、家族は本人の身近にいる支援者、家族がまず本人の支援者になる必要があるとの話に出会う。私はそこに違和感を感じる。
 家族は支援者なのだろうか?自身に置き換えた時、家族のことを支援者だと思ったことはあるだろうか?私はない。なぜなら、家族は家族以外ではないから。
 家族が支援者になった場合、家族は誰が担うのだろう?家族と支援者の役割を両立できるのだろうか?私はできないように感じる。できない以上に、しない方が良いようにも思う。
 なぜ、家族が支援者になろうとするのだろうか?そんなふうに聞くと、他に支援者がいない。子どものことを理解できる人がいない。子どものことを理解できるのは家族だから。そんな答えが返ってきそうな気がする。
 子どもを理解することが支援者なのだろうか?親は本当に子どもを理解できるのだろうか?理解できると思いたいだけではないだろうか?支援者の役割を与えられたら、親の顔をした人がいつまでも本人のそばに居続けることにならないだろうか?家族の役割と支援者の役割を分けて、行動できる人はいない。そうであれば、親がいつまでも親をし続けることになる。親が親をし続ける理由を与えているようにも感じる。
 そんなふうに考えると、支援者になるというのは、果たして子どものためだろうか?そこに、親をし続けたい親の思いはないのだろうか?
 大事なことは、子どもを理解してくれる人を求めることでも、親がその役割を担うことでもなく、親は親はし、時期が来たらその役割を降りることのような気がする。親がいつまでも親をしていたら、子どもはいつまでも子どものまま。
 子どもに独立してほしい。自分の力で生活してほしいと一方で話しながら、もう一方で子どもの手を引っ張っていては、話は前に進まない。
 親は親、家族は家族。それ以上でも、それ以下でもない。私はそう思う。

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