ひとりぼっちと居場所

 某月某日。以前から取材して下さった記者の方に会う。
 最初にお会いしたのは、4年前。この間に3~4回、お会いし、話を聞いて頂いた。取り組み始めた、相談室に改造した車を使用し、声を聴く取り組みに至るまでの私の歩みを話した。
 小学校の先生になろうと思った。これまでの経験であまり良い先生に出会えなかったとの想いから、自分が良い先生に。そんな浅はかな理由から志望した。出願書類を仕上げて、駅前をブラブラしていたら、障害者の募金活動に出会った。理由は分からない。でも、暫く止まって、見ていた。小学校の先生は他の人がなる。でも・・。そう思った時に、亡くなった祖母の顔が浮かんだ。高齢者と関わろう、そう思った。家に帰り、出願書類を破り、福祉の大学に進学先を変えた。
 大学に進み、福祉を勉強した。勉強すればするほど、現場に立つことが怖くなった。自分には人の話が聞けない。そう思った。4年次、私は現場に出ることを避け、大学院に進学した。
 高齢者に関わろうと、施設にボランティアなどに出かけると、私は徘徊する高齢者が気になった。施設で住むところがあるのに、自身の居場所として感じることができず、元々の家に帰ることを希望する高齢者。ホームがない、ひとりぼっちだなと感じた。
 大学院で高齢者をテーマにする予定だった。でも、アルバイトで精神障害者の小規模作業所の非常勤職員になった。週末は大学在籍時にお世話になった精神障害者のグループホームで寝泊まりをした。彼ら・彼女らの話を聞いていると、徘徊する高齢者に感じた、ひとりぼっちという言葉が浮かんだ。彼ら・彼女らがひとりぼっちと感じず、生活できるにはどうしたら良いのか、研究テーマを高齢者から精神障害者に変えた。
 修士を終える段階になり、精神障害者が一番、孤独を感じるところ、精神科病院で働こうと思った。精神科病院に就職した。病院には長期入院している人たちが沢山いた。まさしく、ホームがない人たちだった。ホームと感じられる形を作りたい、そう思い、働いた。働いて、働いた結果、身体が悲鳴をあげた。これ以上は身体がもたないという思いと共に、病院の枠内だけで考えていても、状況は変わらないとの思いから、病院を退職。地域づくりを学ぶ、大学院に入学した。入学して、ついた指導教員の専門分野は行政法だった。学ぶ中で、行政で仕事についてみようと思った。
 公務員試験を受け、仕事についた。相談員として勤務した。相談業務を続ける中で、ひきこもりと出会った。家はある。部屋はある。でも、徘徊する高齢者、精神障害者に感じたホームがない、ひとりぼっちという感想を持った・・・。
 振り返ってみると、テーマとする対象は変わっても、私はひとりぼっちに関心があり、ひとりぼっちが安心できる居場所を作りたいと思い、活動してきた。どう生きていくのか?は人それぞれが考えること。でも、それを考えるためには、まずは安心して考えることができる環境が必要になる。文字通り、安心できる環境、住居や経済的な安定などを整えると共に、私自身が安心できる存在にならなければならないと感じてきた。
 記者の方と話す中で、自分が何をしてきたのか、これから何をしていくのかを感じることができたように感じる。私の最初の本、ひきこもりでいいみたい。何でこのタイトルにしたのかを改めて感じた1日だった。

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