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偶然じゃないんだな
腰を痛めて通っている整体の先生が超自由な感じでとても良い。
なんていうか、もうみるからにその人そのもの、ありのままに生きていて、
自分が自分であることに1000%安心している感じ。
絶対的な安心基地だった父が認知症になり、唯一のそれを失った私は、
そこから徹底的に一見明るくて、
すっとこどっこいで、超絶さっぱりタイプ(これも1人の自分)だけど、
実はうんざりするほどめんどくさい自分に向き合ってきた。
自覚的に生きづらさを抱え、それを何とかしたくて向き合うのとは違い、
生きづらいと自覚したことがそれまでほとんどなかった私にとって、自分に向き合う作業は、
それこそこのまま放っておけば綺麗に剥がれるカサブタを、無理やり力づくで剥がすような痛み満載で、
こういうこと(心のしくみとか、潜在意識の働きとか)に興味のない、いわゆるフツーの友人たちからは、半ば呆れ顔で、「何が不満なの?」
「意味わかんないよ、マジで」などと揶揄された。
自分でも時々イヤになって、何してんだろ?と思ったりして。
そんなへっぴり腰ではあったけれど、学びや体験を重ねるうちに、
それまで全く見えていなかった世界が見えるようになり、私の世界は確実に広がった。
玉ねぎの皮がふたまわりくらい剥けたかなってところで、気持ち的にも大分落ち着いたと思っていたけれど、
この春の生活の変化に伴う出会いやら何やらが刺激になり、自分の活動のスタートダッシュをかけたい気持ちとは裏腹に、
ぼぉっとしてして集中力に欠け、気づけば一日が終わってしまうような日々を過ごすうち、
どうやらこれはより深いところの皮が新たに剥け始めたらしいぞと気づいたのだった。
こんなことじゃいかん!と頭の私は、自分を奮い立たせようとするけれど、
ずっと押し込めてきてその存在さえもないことにされてきたもう1人の私が、息を吹き返し、
今までのように頭の思うままには制御できなくなっているようで(命にとってはこの上ない祝福)、しばらくそのせめぎ合いが続いていたが、
なんてことない平凡な一日の中で、
突然湧き上がる気持ちを他になすすべもなく、降参してただただ感じていくと、
これまでのように無駄な抵抗がない分、明らかに今までよりも深い層からの声であることを明白に理解し、
置き去りにしてきた未消化の気持ちを抱えていた幼き自分が、少しずつ私への信頼を増しているのを実感できることは、私に深い安堵をもたらした。
そんな心持ちで過ごしている今のタイミングで、自分ど真ん中で軽やかに生きている人に出会う。
偶然ではない、この命の深淵さに震える。
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