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『鬼滅の刃』 現代の鬼再び 5累の心理

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今回は、『鬼滅の刃』TVアニメ第十六話「那田蜘蛛山なたぐもやま」から第二十一話「隊律違反たいりついはん」に登場する鬼「るい」の心理を解説する。

1)餓鬼道がきどう

鬼の習性について、炭次郎の育手そだて(師匠)鱗崎うろこざきが「鬼は集団にはならない」と語っている。実際、物語の第十一話「つづみの屋敷」に登場した鬼たちも、屋敷の主「響凱(きょうがい)」他、三体の鬼は互いに険悪で、「稀血まれち」(一般の人間よりも鬼にとり栄養が高いとされる人間の血)の奪い合いをしていた。

仏教では、六道りくどうといい、天上界からはじまり、地獄じごく界、餓鬼がき界、畜生ちくしょう界、修羅しゅら界、人間界と流転るてんする道があるといわれている。

そこには、鬼畜という餓鬼、畜生を往来する感情の流れがある。

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しかし、「偽りの絆」で登場する「累」だけは、鬼同士が集団で生活をしていた。この状態が極めて稀だとすると、仮初かりそめにもどうして「累」は家族を持つことができたのか。

2)累の心境

前回も解説したが、この家族は、恐怖と束縛によるマフィア的な集団だった。だから、アットホームで心温まるような「家族」という形ではないかも知れない。

しかし、仮にも「家族」という形を取れたのは、「累」の存在の特殊性がある。

過去を回想するシーンに、子どもの頃から体が弱く、走ったことすらなかった「累」の姿がある。

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実は、鬼のラスボス、鬼舞辻無惨きむつじむざんも体が弱く、そんな「累」の生い立ちと似ている。

無惨も「累」を我が身のように感じたのだろう。「累」は無惨から貰い受けた「血」をちぎりとして、他の鬼に与えてもよいと許されていた。

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これは、ある意味無惨の戦略だったのかもしれない。

ある日、無惨の出現により、鬼になることを促された。

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「可哀そうに、私が救ってあげよう・・・」

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そして、自ら望んで鬼になり、強い体が手に入った。

川でおぼれている子どもを、親が命がけで助けたという、親子の絆のエピソード。「累」は感動した。美しい親子愛に心打たれた。

彼は鬼になってからも、親子の愛に飢えていた。子ども心に、親だったらどんなことがあっても自分を守り抜いてくれる、と「累」は信じていた。

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鬼となれば、子どもの鬼でも、親を食らうことがあるが、物語上「累」は、自ら親を食らってはいない。

しかし、人を食って生きていかなければならなくなった現実は、彼の両親には、とても償いきれるものではなかった。

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親としては我が子と共に心中を図ろうとした。が、「累」はその行為を察し親を殺傷する。

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丈夫な体に・・・生んであげられなくて
・・・ごめんね・・・

母親がつぶやき、こと切れた。

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「累」はこの時、本当の絆を切ってしまった、と回想する。

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そんな事件があった後、ふたたび鬼舞辻無惨がやってくる。そして、親の愚かさを指摘し、強くなるよう励ます。この時、おそらく、他の鬼には許されない契りが約束されたのだろう。

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とにかく「累」は、無惨に「情」を掛けられた特別な存在だった。

3)累と家族の絆

「累」は「十二鬼月きづき」の下弦のとして登場する。強い鬼の中では下から二番目でも血鬼術けっきじゅつを使い、相当に強い存在だった。しかし、炭次郎との死闘の後、最期は那田雲山に参上した富岡義勇とみおかぎゆうにより殺生される。

力尽き倒れたままの炭次郎と禰豆子に、首のない「累」は両手を伸ばしよろめきながら歩み寄る。ついに「累」も力尽き、炭次郎の傍らに手を伸ばして倒れ込む。

炭次郎はその気配に気付き「累」の手に触れる。

小さな体から抱えきれないほど大きな悲しみの匂いがする・・・

炭次郎は「情け」を掛け、「累」の背中に手を置いた。

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(累)暖かい・・・、日の光のような優しい手

「累」は消えゆくなかで、両親との出会いを果たす。

思い出した・・・はっきりと・・・
僕は謝りたかった・・・

「ごめんなさい・・・全部・・・
全部、僕が悪かったんだ」

どうか、許してほしい・・・

山ほど人を殺した僕は、地獄へ行くよね・・・
母さん父さんのところには行けないよね・・・

そう懺悔ざんげする「累」に両親は言葉を掛ける。

そんなことはない、
一緒に行くよ、地獄でも・・・累(父)

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累・・・どこまでも一緒よ(母)

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過去の辛い想いを胸から吐き出すように、泣きじゃくる「累」。

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自分の過ちに気付き、懺悔する。率直で素直に人が赦しを乞い、その赦しが受入れられたとき、人の心は「0」(れい)に戻る。

自ら最期に「霊」と化した「累」。

両親の言葉が、「鬼」を浄化した瞬間だった。

六道の歩み。それは、全てが学びであることを示す。決して天上界が住み良いのではない。餓鬼、畜生、阿修羅も人間も、そのすべては学びと気付きのためにあることを示している。

中でも地獄は、最も辛く苦しく悩み多きところではあるが、そこを越えてはじめて人間は一つを深く学ぶ。

自らの行いを悔い、改心しようとする心は、見る者の心も浄化していく。

4)自己受容感

そしてもう一つ、この過程では自己受容が大切なテーマとして描かれている。「累」の行いは、決して許されるものではなかった。しかし、自らの行いに気付き、赦しを乞う素直な心と、その行いを共に償おうとする深い親の愛を描くことで、その受容感がより高まった。

誰しも、謝りたいが意地を張って素直になれないときがある。そんな当たりまえの感情を浮き彫りにし、家族の絆の大切さも描いている。

感情の変化は、正に「受容」によって変化する。

基本的なネガティブ感情をマッピングしたものだ。悩み、怒り、恐怖、嫉妬、嫌悪、悲哀、は中央の驚きというコアエモーションから発せられる。

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基本的に、「驚き」から様々な陰性感情へ派生する。要はその「驚き」の感情を「己」がどう処理するかにかかっている。そして、陰性感情を陽性感情に変換するコアモーションは「受容感」である。

「自己受容」が高められると、悩みは肯定へ、怒りは惻隠そくいんへ、恐怖は辞譲じじょうへ、嫉妬は喜びへ、悲しみは共感へ、嫌悪は容赦へ心境が変化する。

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この心境変化の担い手になるのが「愛」の働きである。その中心には「受容感」がある。それにより本来、人は本当の安らぎを自覚し、自らの存在を肯定し、他人に優しくなれるのである。

だが・・・物語はこれで終わりではなかった。

5)現実の仕打ち

炭次郎の情け深い行為に対し、既に抜け殻になったしかばねの「累」を踏みつけにして義勇が言う。

(義勇)「人を食った鬼に、
情けを掛けるな、子どもの鬼でも関係ない」

しかし、炭次郎は毅然きぜんと答える。

殺された人たちの無念をはらすため、
もちろん俺は容赦なく鬼の首に刃を振るいます。

だけど、鬼である事に苦しみ、
自らの行いを悔いている者を
踏みつけにはしない!

鬼は人間だったんだから、
俺と同じ人間だったんだから!

足をどけてください!
醜い化け物なんかじゃない、
鬼は空しい生き物だ、悲しい生き物だ・・・

いつも私たちが持っている情。確かに鬼にされた者は、何かしらの弱さを持っていたに違いない。その弱さに付け込まれ、鬼にされた。あるいは自らの弱さ故に鬼になった。「累」の体の弱さは、その分かりやすいたとえだ。

しかし、その弱さは、人間の「情け」を必要としている。

6)弱さから見えること

こころの弱さは、「情け」が人とこころを通い合わせることができる唯一の感情であることを思い出させる。辛さや苦しみ、悲しさを癒すには、深い共感が必要なのだ。

「情け」を通した共感は、こころから分かり合えたそのあかしとなる。

集団の組織社会科学の領域では、最近こんな本がウケている。

「なぜ弱さを見せあえる組織が強いのか」

これは、単に「情け」に訴えかける感情操作ではない。組織においては不要な緊張感を解くことが大切で、それは、いわばアットホームな感覚を持つことである。

社会組織の最小単位が「家族」であるとすれば、お互いの「弱さ」を見せあうことが、緊張をほぐすきっかけになる。これには、少しのユーモアも必要とも語っている。

今回の考察は、もう少し深く語りたかったが、紙面の関係でこの辺にしよう。

このテーマは、『鬼滅の刃』全編を通してみられるため、折に触れていきたい。

とにかく、私自身、このシーンが一番泣けたところであった。


次回へつづく。








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