_君の名は_

今、だからこそ…『君の名は。』から、こころ模様を学ぶ 第二回


note マガジン『娯』 シリーズ「君の名は。」

胸キュンとは?

 

第二回 胸キュンの仕組み

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Ⅰ.キュンな感覚

ⅰ)「え」感

 胸キュンには旬が存在する。胸キュンと同様に感応する言葉として「萌え」がある。この「萌え」は、草冠に明るいと書くが、その字のごとく、明るい草の色、つまり新緑の色を表現する。この色彩は、精神に息吹を与え気力を整え、人々に新しいことにチャレンジする活力と行動を起こすための意志を備えるように差し向ける自然の色である。

 下に現時点で考案中の心の立体モデルの色相環をモチーフに配列した図をお示しする。

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 モデルの詳細については別の機会に触れるが、中央に黄緑を配置し、周囲に六色が配列されている。中心に黄緑「萌え」の色が配置されている。地面から、はじめて顔を出す萌芽ほうがを想像していただきたい。小さな二葉にはまだ種の皮殻が帽子のように付いていて葉が開くのを見守っている。

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 「萌え」の時期は、この初々しさと恥ずかしさなど、フレッシュな感覚と同時に「戸惑い」などドキドキ感がい交ぜになり、見ているものの胸を揺さぶる。この一種の「ちょっとした揺さぶり感」がキュンの正体である。

 中央に黄緑があるのは、立体モデルの色相環として配列した結果であるが、偶然ではないだろう。自然の環境さえ整えば種は発芽する。その自然環境とは、水と空気と大地である。この色相環ではそれぞれ、空気は緑、水は青、大地は橙、そして内・外面の光エネルギーは黄・赤として表現している。そして種は、黄緑の後ろに隠れている紫の球である。

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立体モデルを少し動かして黄緑の後ろに控える球を見てみよう。

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 この紫の球が「秩序」の大元の「種」である。種から発芽した初々しさが残る時期、これが「萌え」の条件である。

ⅱ)「純」と「粋」

 そして、もう一つ、実は「純」と「粋(いき)」という言葉もキュンに関係する。「純粋」という言葉があるが、これは「純」が協調されるときもあるし、「粋」が強調されることもある。粋(いき)といえば、九鬼周造『「いき」の構造』という名著があるが、これによれば、「いき」とは日本人の独自の美意識をあらわすものなのだという。

 その表現を次のように書き記している。少し難解だが、「いきとは、運命によって<諦め>を得た<媚態びたい>が<意気地>の自由に生きるのが<いき>である」と。少し大人びた表現であるが、今回の「君の名は。」の記憶を無くしてからの後半は、この延長線の始発駅から終着駅までを描いた、と個人的には解釈している。

 この難解な言葉を解釈すると、最終的に出会いから8年を経過した段階で、二人がずっと「何かを誰かを探している」その探しているものは、結局わからないのだけれど、こそに最後まで取り入ろうとする態度は<媚態>であり、他と張り合って、自分の思う事をどうしても通そうとする<意気地>で探し続ける姿を描く。

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 そして<意気地>を通し続けた二人が、明らかにして極める<諦め>によって、最終的に幸運にも運命が<粋>な計らいをしてくれるという、そのような胸キュンの構造があるのではないだろうか。胸キュンには<粋>で<純>で真剣な「かっこよさ」のエッセンスが香るのである。

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 いわば、ファンにとっては「艦これ」も胸キュンなのであり、欅坂46の「サイレントマジョリティー」も胸キュンなのである。ここではこれら様々な体制への批判や反駁は言いだしたら切りがないくらいあるが、そこには触れないでおこう。しかし、率直に私たちの心には、少なくともこのような胸キュンの構造があるということは、間違いのないことだろう。

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 やはり、ここで誤解のないように一言いっておくが、絶対に断固として戦争も軍隊も賛美されるものではない。戦争や軍隊が「かっこいい」のではなく、ここにある何かを守る真剣さや国を思う純粋な心が美しいと感じ胸を打つのである。

Ⅱ.キュンの御膳立て

ⅰ)胸キュンと物理的効果

 新海監督は、物理的なギャップを利用して心模様を表現することがよくある。踏切、歩道橋、階段、廊下などが使われているが、今回は、互いに並走する電車の窓からのギャップを利用した最後の場面は、完璧なまでの演出効果を出している。

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 三葉が電車の窓ごしに瀧を見つけたときの表情や、そのあと一瞬して他の電車が間に入り見えなくなるところなど、刹那の出会いに胸キュンも最高潮に達した。

ⅱ)胸キュンと気象条件

 そして、これも新海監督の得意技であるが、雨や嵐、雷雨などの天候や、昼間や夜や夕方など、自然の天候や時間などで、主人公の気分を表現していることがよくある。このようなバックの仕掛けによって、言葉で表現しなくとも、その時の気持ちが伝わってくる感じがする。

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 今回のクライマックスは、やはりカタワレ時の設定だろう。ユキちゃん先生が古典の授業をしているときに話す内容が、カタワレ時のシーンに生きてくる。「かれ、これが黄昏時たそがれどきの語源ね。黄昏時はわかるでしょう?。夕方、昼でも夜でもない時間。世界の輪郭がぼやけて、人ならざるものに出会うかもしれない時間。もっと古くは、『かれたそ時』とか、『かはたれ時』とか言ったそうです」

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 カタワレ時は、糸守の地方に伝わる方言で、夕方のほんの短い時間に二人が時空を超えて出会うという設定である。これも刹那せつなの定めになっていて胸キュンのど真ん中を突いている。ここで二人は名前を忘れないように、瀧が三葉の掌に文字を書く。

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 今度は三葉が瀧の掌に書こうとするが、その瞬間カタワレ時が終わりを告げ、三葉は消えてしまう。瀧の掌には無造作に一本の線が残る。不意に一人になり瀧は辺りを見回す。しかし、もう三葉の姿はない。人は、無意識に暗がりを怖がるものである。一人の心細さや、たった今まで三葉が嬉しそうにしていた余韻が寂しさを深める。このシーンは様々な刹那が交錯し胸キュンのオンパレードであった。

ⅲ)胸キュンと魂の教え

 さらに、糸守町の組紐や方言などの言い伝えや、宮水神社に古くから伝わる巫女の踊りの意味など、今回もストーリーに重みを持たせるために歴史的文化的背景を中心に継承をすることの大切さを表現している。そして、お婆ちゃんの「ムスビ」の話が光る。

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 「三葉、四葉、ムスビって知っとるか」「ムスビ?」「土地の氏神さまのことをな、古い言葉で産霊むすびって呼ぶんやさ。この言葉には、いくつものふかーい意味がある。糸を繋げるのもムスビ、人を繋げるのもムスビ、時間が流れるのもムスビ、ぜんぶ同じ言葉を使う。それは神さまの呼び名であり、神さまの力や。ワシらの作る組紐も、神さまの技、時間の流れそのものを顕しとる…寄り集まって形を作り、捻じれ絡まって、時には戻って、途切れ、またつながり。それがムスビ、それが時間」

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 そして「ムスビ」と魂との繋がりも説明する。御神体へ口噛み酒を奉納する道すがら、麦茶(小説では砂糖を少し入れた麦茶)を飲んで休憩したときに、お婆ちゃんが「水でも、米でも、酒でも、人の体に入ったもんが、魂と結びつくこともまたムスビ。だから今日のご奉納は、神さまと人間を繋ぐための、大切なしきたりなんやよ」

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 この言葉は、人の道とは連綿と続く伝統や文化を大切にしていく心や行為であることを言い含めており、このような歴史ある伝統や文化の中に畏敬の念や重みを感じながら、命と同様、仕来たりを育む行為を通じて、自然を神々とする信仰心や、目に見えない魂の存在を、私たちに思い起こさせてくれる。

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 これらのエピソードがあって、彗星が落ちる前へ時間を遡り、三葉の体に瀧の魂が入ったとき、生きている喜びを感じ、さらに三葉の身体がこの上なく愛しく感じる。ただただ、体が無事であること、そしてそれがこの上なく善きことだということ。普段は当たり前のようにある体も、とてつもなく大切なものであると心に響く瞬間である。

ⅳ)見る者にとっての<媚態>

 胸が"キュン"とするのは、大概、自らがそこに取り入ろうとする意識が働いている。何かしてあげたい、あるいは放っておけない、何とかならないかと、良心が反応しているのだ。つまり、ギャップに取り入りそこを取り持ち繋げてあげたい、ギャップから良心によって見る者にとっての<媚態>が生じ心が反応するのだ。

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 前回も「胸キュンを探る!」に書いたが、胸キュンの正体は、様々なギャップにある。恋愛でもお互いの微妙な距離感を感じているときが最高潮だろう。それは、物理的な距離から内面の心の距離感まで、惹かれる気持ちと相手に伝わらないもどかしさなどの気持ちがい交ぜになっている状態だ。

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 つまり、胸キュンは良心の鏡だ。ギャップを縮めようとする良心の働きなのだ。経済学者のピーター・ドラッカーはこう言っている。すべてのギャップは仕事になる。それがニーズとして求められるからだ。特に希望を抱くようなことがギャップになる場合は、そこに必ずニーズがある。

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 キュンな感覚を持ち続けそこにコミットし続ける媚態びたいを通して内面のニーズを探り、私がいったい何者であるのか、そして私は何を求めているのかが見えてくる。記憶をなくした三葉や瀧が最終的に巡り会えたように、この映画は、見る者に希望を持ち続け自分の存在する意味を問いかけることを意図している。

Ⅲ.映像美

 映像美については、私が解説せずともメディアの論評にイヤというほどでてくるので、ここで敢えて解説しなくても良いと思っていたが、私は個人的に美的センスにはウルサイので、少し触れておくことにしよう。胸キュンの御膳立てでやはり、美しさは欠かすことができないだろう。

 視覚効果というものを今回の映像の中で効果的に使っている手法を発見した。それは、レンズの屈折などで偶然的に生じる光のリングやオーヴのような効果光である。この効果は絶大であると言わざるを得ない。

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 上の一コマをご覧いただければお分かりになると思うが、光の射す方向と反射するところにオーヴのような薄青い光と薄橙色の光が描かれている。そしてこの二つの色は補色の関係になっている。このような効果光を、あからさまに描くという手法は、今まであまり見たことがない(知らないだけかもしれないが…)。しかし、これが描写とともに動くとなると、それが光の動きを映しだし、見る者の目を楽しませるとでもいうのだろうか。

 この効果については、検証が必要であるが、光溢れるものを見ると、私たちは妙に惹きこまれるものだ。それは、もしかしたら、私たちがかつて、光の存在であったせいかもしれない。

 次回は、RADWIMPSの楽曲と劇伴のお話しを予定しています。胸キュンは、音と映像のコラボで生まれます。第三回へ続く。お楽しみに。

最後までお読みいただき、
誠にありがとうございました。

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