『哲学』の散歩道 Vol.10「システム」論Ⅳ
今まで『哲学』の散歩道では「居心地の良い場所」という命題について話を続けてきた。
それを「見える化」していくというのが私の役割であり、今回の話の流れで、これから仏教の「八正道」を使い関連性を見ていくことになりそうだ。
その前に、今まで論じたことをもう一度整理して簡単に図式化しておこう。
「システム論」とは
『居心地の良い場所』⇒
「場所」=「認識」⇒
「こころの浄化としてのシステム」⇒
「浄化」=「改善」⇒
「八正道」の「見える化」⇒
「こころの立体モデル」
この「システム論」を構成するキーワードは、上記の流れになる。これからの解説では、このどこを切っても首尾一貫したモデルに描かれていくはずだ。
すべての「システム論」の目的とは、人間社会に最終的な認識と改善の「見える化」を付与し、最終的なニーズである『居心地の良さ』を分かりやすく構築することだ。
繰り返しになるが「システム論」とは、『居心地の良い場所』の提供であり、その「場所」とは主観的な認識や自覚から、「こころの浄化」に役立ち、「浄化」は「改善」として正しい教えの「八正道」とも関連し、それを「こころの立体モデル」で「見える化」すること、といえよう。
では、このようなくつろげる理想的な「居場所」を目指すために必要なものとは何だろうか?
その質問に答えるために、これからこの「システム論」の骨組みとなる理論を掲げていく。
1)基本四象限
最近では、社会組織科学という学問が流行っているが、そもそも社会の環境をどのように捉えるか?それが「こころの在り方」に関与している。
そのヒントとして、ケン・ウィルバーの四つのマトリックスの考え方がある。彼は、人間社会を構築する基本環境には、四つのマトリクスがあることを提唱した。
ウィルバーの理論はとてもシンプルだが、特に社会における人間の振る舞いや人間の行動を見ていくとそのマトリクスの組み立て方が非常に示唆に富んでいることが分かる。
その内容は、「インテグラルスピリチュアリティ」に詳しい。
私はこれを「基本四象限」と呼んでいる。
「基本四象限」は、四つの象限から社会を見立てる方法だ。
上図のように、内面と外面を分かつ縦軸と、個々人と集団を分かつ横軸から成り立っている。そして、できあがった四つの象限に相応しい語彙を定義した。
それは、「精神」「身体」「社会」「心理」である。
内面の個々人は「精神」
内面の集団は「心理」
外面の個々人は「身体」
外面の集団は「社会」
※ ウィルバーは「精神」を「私」、「心理」を「私たち」、「身体」と「社会」を合せて「それ」と定義しこれらをビッグスリーと呼んでいる。
という極めてシンプルな分け方である。ここで、それぞれの象限に着目する前に、そもそもこの象限を分けている「軸」が一体何か、ということから見ていくことにする。
① 縦の軸
はじめに、内面と外面を分かつ縦の軸に着目する。つまり個々人と集団の内面と外面を分ける仕組みとは何か?
これが結構奥深い。
一見戸惑いそうな命題だが、いくつかのウィルバーの著作(いずれも邦訳されたものに限るが)には構造的な理屈は解説されていない。
(令和4年1月19日追記)そもそもウィルバーは精神という枠組を「私」と表現していることにより、個人の視点が分かりくくなっていることに気付いた。これは、対訳上の課題かも知らないが、個人を指す「私」と「自分」という表現は異なるからだ。このヒントを与えてくれたのは、西部邁著「日本人の道徳」にある。「私」というのは、ある意味自分を客観的に見立て、外から見ている印象を与える語彙だという。したがって、本来の自分の位置はこの「基本四象限」には見出されていない。このことについては、また触れることにする。
彼はあくまで概念的な図として「四象限」を使っている。
これから「こころの立体モデル」の構造を把握するに際して、このような「軸」や「点」、「平面」などの「立体」を構成している一つひとつの部分がどのような役割や意味を持つかを把握する必要がある。
これを「軸命題」として掲げていく。
それはたいていこのような概念的な図の「境界」が何を意味しているか、そしてまたそこでは何が行われるのか、あるいは「境界」が持つギャップをどのように吟味していくかが大切となる。
内面と外面の境界にはどんな関係が潜んでいるのだろうか。
私はここに「言語」や「会話」を置いた。つまり「言葉」の世界がトレース(写)されているのだ。
この「システム論」では、先ほど触れたように話のどこを切っても首尾一貫しており後述できるので簡潔に解説していく。
また、この縦の軸は、話の終盤で自分軸として重要な「柱」となる。
今は一本の「線」あるいは「軸」であるが、これが次第に太く「幅」を持った「柱」となる。
この柱には「利己」や「人格」、「規律」や「従属」という語彙が関連してくる。
また、「言語」の領域では、言語の仕組みとして「尺度」「伝達」「表現」「蓄積」(TEAM)という「言語システム」の基本的なあらましも関与する。
ここで「言語」と「会話」とは少し意味合いが異なるので、言葉の定義をしておく。
「言語」とは、
文化的に話される基本的な枠組みであり、例えばわが国の母国語としての「言語」は日本語であるというような理解だ。
それに対し
「会話」とは、
個人的に交わす「スラング」、特定の地域にしか通じないような「方言」なども含まれてくる。
したがって「言語」と「会話」は、「集団」の内面と外面を分かつのが「言語」であり、「個々人」の内面と外面を分かつのが「言葉」会話であると言える。
これらの言葉や会話は、「能力」としての一面を持つ。すなわち、この軸は「能力」を示す軸として考えて良いだろう。(令和4年1月19日追記)
もう一つの内外を通した違いとは、
内面は、見えにくいもの
そして、
外面は、見えやすいもの
といえる。
② 横の軸
では、次に横軸について見てみよう。
実際に横軸の「個々人」と「集団」を分かつ関係性とは何だろうか。
これは、左右に広がる「内面」と「外面」によって少し見立てが異なるが、「個々人」としての見える関係と見えにくい関係、「集団」としての見える関係と見えにくい関係性がある。
そもそも「個人」、あるいは「自分」としてもよいが、当事者感覚として「集団」というのは、所属するという感覚がある。
ある「集団」に「従属」する、ということだ。
最も身近な例でいえば、「家族」が「集団」になる。
しかし、べったり依存しているわけではなく、それぞれが「個々人」として「自立」していく側面もあるだろう。
これは、縦軸中心の自分軸に沿ったところに関与してくる。
集団と個々人を分かつ基本的な要因として、「内面」の見えないところと「外面」の見えるところは、おおよそ「本音」と「建前」のような関係性がある。
つまり「内面」的には、自分が|与《くみ》したくないと思ったとしても、立場で「外面」に従属している、このような場合だ。
例えば、国防の戦略として自衛隊を容認しているが、国民の民意がすべて戦争という手段を取り得るとは限らない。ましてや個人的に戦争に反対していることすらある。
そして、実際に戦時中であれば、自分の意に反し敵を倒さなければ、自分が殺られる切羽詰まった状況すらあるだろう。
その環境によって見かけの正義は、その姿を変える。
もう少し固い言い方をすれば、「察知」と「触知」ということもできる。
戦争で相手のことを察することは「良心」を通して為された場合、当然のことながらそれが自分の「スキ」となり命が脅かされる。
戦争の例を連ねたが、そもそも「戦時中」という時代がかなり特殊であるといえる。この場合、始めにそのような環境に向かって世界の舵を切った時代の「思想」が背景にあるだろう。
私たちは、初動では「自由な思想」を与えられている存在である。
心理的に察する文化と実際に触れる文化ということも可能だ。
この初動に際し、極めて「察する文化」が大切なことがお分かりになるだろう。私たちは「自由」を与えられてはいるが、それはあくまでも「責任ある自由性」に基づいている。
その「思想」は、「察する文化」から「触れる文化」へと移行していく。「触れる文化」は外面に出現する実在する文化だ。
しかし触れたからといって、外面を見ているだけでは何も伝わってこない時もある。
ちょうど音声をカットして見ているドラマのように、あるいは表面的な立場でものを言っている場合も、触れてはいるが察しなければわかり得ない。
また、横軸はこれらの情動を支配しているともいえる。生理的欲求や要求、あるいは欲望に至るまで、その感覚的な感情や情動に関与すると考えていただいてよい。(令和4年1月19日追記)
もう一度、基本四象限を見て、実際に「自分」がどのような社会環境に属しているのか観察してみてほしい。
次回「システム論」Ⅴは、さらに構造的なお話を進めていく。
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