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エピソード 1 愛の弓矢(1812文字)

1)愛の性質

『愛』とは、すべての生命の中今なかいまに、あらゆる宇宙の中心から、自らの中心に至るまでを射抜く矢である。

この譬えは、『愛』の性質を物語っている。中今とは、神道の思想で、過去と未来を内包して、永遠に続く中心点をとらえること。また、あらゆる宇宙とは、一人ひとりの宇宙のこと。自らの中心とは、これからご説明する立体モデルの中心のことである。それらを射抜く矢が『愛』である。

射抜く矢の先に、『愛』の『まと』がある。それが『愛』の目的。目的を見つけ、そこを射抜く心情は、『愛』の基本姿勢だ。その姿勢とは、

いつまでも眺めていたい
(後ろ髪を引かれる思い)

この感情である。この言葉は、心情を表現する、より主観的な感情だ。そしてより客観的には、その視点であり、視座であり、視線であるといえる。

この姿勢を、『愛』の象形からうかがい知ることができる。

白川静、『常用字解』によれば、次のようだ。

会意。後ろを顧みてたたずむ人の形の胸のあたりに、心臓の形である心を加えた形。立ち去ろうとして後ろに心がひかれる人の姿であり、その心情を『愛』といい、「いつくしむ」の意味となる。

さらに、

国語では「かなし」とよみ、後ろの人に心を残す心にかかることをいう。それより愛情の意味となった。はっきりしない、ぼんやりした状態をほのかという。日がかげり薄暗いことをかげる、くらいといい、曖昧あいまいのようにつかう。

つまり、会意からは、「後ろ髪を引かれる」感情であることが分かる。その視点は、愛する対象に向かっている。その視座は自らの心であり、心と対象の間に視線がある。

その視線が、先ほどの「矢」である。

この「矢」は、あらゆる対象から放たれる。それは、過去の記憶を呼び覚まし、痛みが生じることもあるだろう。記憶と共に心臓を射られた者しか知り得ない痛みを伴うこともある。

それは、辛く悲しい追憶の世界に一人佇み、封印し深く傷ついた心の痛みを想起させるかもしれない。

だが、『愛』は全く違う働きがある。それが、後ろの人にこころを残すという、わが国の『愛』の在り方だ。

2)「かなし」の感情

古語「かなし」には大きく分けて二つの意味があるとされている。壽岳章子じゅがくあきこ(一九五二)はその二義を「一つは哀切、一つは恋愛情緒」と分けながらも、「出発となる情意は、胸に迫る切ない生理的なもの」だという点で、 「ふるさとを一にする」と述べている。

また松浦照子 (一九七八) は二つの用例を挙げ、「泣く」に帰結する方と、「でかしづく」と同様の意味を有する方で分け、陰性と陽性の二面を認めている。

このように「かなし」に二つの意味があることを主張する先行論は多いが、阪倉篤義さかくら あつよし(一九七八)は『万葉集』における「かなし」の用例を分析し、それを次のように表現している。

「かなし」という語の中心的な意味をなすのは、要するに、求めるものの不在によって感じる、 満たされぬ淋しさであり、空しさなのである。求める対象の不在をしめやかに嘆く消極性に対して、 むしろこれを激しく志向する積極性を示すのが、愛情を意味する「かなし」の場合である。

つまり阪倉は、 「求める対象の不在」を「かなし」の根本意義として見ながら、その対象への態度によって二義を区別している。阪倉は「消極性」の方を「悲哀の情のかなし」 、 「積極性」の方を「愛情のかなし」と呼んでいる。

この「かなし」については「愛の美学」性知学せいちがくの中で再び触れていくことにする。

3)愛の位置

では、愛を射抜く矢があるとすれば、その的はどのような「場」であろうか。

これは、愛を物語る人間によって変化する。簡潔に表現すれば、心性しんせいによって変わる。

「性知学」という新たな学問の「エロメンタル」領域に相応しい解釈は、「性」をどのように理解しているかに依る、ということだ。

つまり、性格や性質、気性や本性などと言われる、マインドを、自他ともにどのように理解しているかに関与する。

今回は副読本として、note 『論』「思考のこころみ」に構造的な解釈を載せた。

その解釈を基に、こちらでも、愛の構造的な解釈をこころみてみたい。それでは、次回、エピソード2『愛の媚薬』お楽しみに。

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つづく


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