恋に恋して 第24話
近くで見ると……
『利用者さんとの話がすごい上手!!』
イズミちゃんは仕事の移動中、車の中でボクを褒めてくれた。
アニメ声の彼女に褒められるとなんか嬉しくなってしまうのは気のせいではなかった。
そもそも今までは怒られることはあっても、こうやって褒められることはなかったのだ。
嬉しいに決まっている。
『そ……そうですか?』
『うん。すごい! どうやって話せばいいの?』
『いや……ボクもそんなに話せなかったんですよ。ねえ、川野さん』
訪問入浴は基本的に3人1組で仕事をする。
以前にも話した通りだが、運転手とヘルパー、そして看護師だ。
ところがこの頃は、ヘルパーは下橋さんとアズーしか事務所にいなかったので、看護師の方が人数が多いという状態だった。
訪問入浴という仕事はいかんせん、看護師の確保が難しい。
よくよく聞くと、それは病院などでも同じらしいから、当時は本当に恵まれた状態だったのだ。
そんなわけで、その日はボクが運転する車に看護師が二人乗って仕事していたのだ。
『そうかな? あたしよく覚えてないけど』
川野さんはいつものようにぼんやりとした口調で言った。
覚えていないわけがない。
ボクが新人の頃、当時一緒に仕事していた佐藤さんという看護師に毎日のように怒られているのを彼女は見ているはずなのだ。
なのにそれを言わないのは彼女の優しさだったのだろうか……
いや……
ただ単に忘れてしまっただけだったとも思う。
川野さんならあり得る話だ。
『ボク、人見知りしてたんですよ』
『ええええ!!!』
『知らない人と話すのも苦手でした』
『うそでしょ?!』
『本当ですよ。でも話せるようになりました』
『え? どうやって??』
助手席から身を乗り出してイズミちゃんはボクに聞いてきた。
興味深々なのがよく分かる。
てゆうか……顔が近い……と感じた。
ついでに……
近くで見ると可愛い顔してる……
とも思った。
『知らない人と話すのが怖いから辞めようって思ってたんですよ』
『怖かったの? 今は楽しそうだけど』
『今は楽しいです。でもその時は自分なんかが話して怒られないか怖かったんですよ』
ボクは訪問入浴の仕事を始めたばかりのことを思い出しながら話した。
確かにあの時は何をするにも恐る恐るやっていた。
とにかく……
今まで機械にしか触れたことがないボクが生身に人間に触れる仕事についたのだ。
しかも相手は高齢者。
普段なら話す機会もない。
『最初は口を開く余裕もなかったですよ。身体洗うのに強すぎると怪我させちゃうんじゃないかって思ったりして』
訪問入浴の仕事というのは事業所によってやり方が違う。
ボクが入社した会社では運転手であるオペレーターも高齢者の身体を洗うのを手伝うやり方だった。
他人の身体に触れるという行為は実はけっこう抵抗のあることである。
触れる方が抵抗があるのだから、触れられる方はもっと抵抗があるのではないか……
そんなふうに思った記憶がある。
その感覚は正しかった。
でもその時は、その感覚を間違えてとらえ、おっかなびっくり仕事をしていたのだ。
こちらが不安で仕事をしていると、利用者にも伝わる。
心の中では不安でもそんなことは感じていないような顔をしながら仕事をしなければならない。
そんな不安を利用者に感じさせないための技術の一つが『会話』なのである。
『世代の違う人と話すことってあまりないから、貴重な機会ですよね』
『そうよね。そういう気持ちって大事だよね』
イズミちゃんに褒められたボクはいい気になっていた。
この頃のボクは何をしてもうまく行くような気がしていた。仕事において失敗を考えたことのない時期というのは後にも先にも、この時期しかない。
仕事がうまく行くとプライベートも充実してくる。
相変わらず、ボクには彼女はいなかったけど、それでも何をしていてもうまく行くような気がしていた。
ボクのストレスの大半は仕事がうまく行かないことだったので、仕事のストレスがついてこないこの時期は本当に幸せだった。
『阪上くんは彼女とかいないの?』
一緒に仕事した看護師の大半はボクにこの質問をしてきたが、イズミちゃんも例外ではなかった。
『いないですね』
『そうなんだ。良い人と出会えそうなんだけどね』
『そうですかね』
『合コンとかいかないの?』
『行かないですね。てゆうかそういう暇があったら釣りに行きたいです』
そういう暇があったら釣りに行きたい……というのは完全に嘘である。
今なら嘘偽りなく釣りに行きたいのだけど、それはかみさんがいるからである。
当時は独身だったし、彼女もいなかったから出会いのチャンスがあれば最優先していきたかった。
愚かだ……。
まあ、若気の至りというやつだ。
色恋沙汰といえば、その頃である。
鎌倉営業所で、仙波さんと奈雲さんの話が問題になり始めたのは……。
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