小説『猫がいるから』

家に帰ったら、大きな黒猫が玄関の前に寝そべっていた。
そして扉を開けろと言わんばかりに、大きな声で鳴いた。こんな大きな声で鳴く、大きな猫は見たことがない。うちで飼っている猫より大きい。
しかしこの猫は、僕の家の飼い猫ではない。なんなら初対面である。まあまあ大きな日本家屋を背に、ゴロリと寝そべるこの猫も中々に大きいので様になっている。洋猫の血が入っているのだろうか。
「あ、坊ちゃんお帰りなさいませ」
 お手伝いの志筑が箒を片手に頭に紅葉をつけたまま、バタバタと走ってきた。砂利がザクザクと小気味の良い音を立てた。
秋は落ち葉がよく落ちる。庭が広いのもあって、志筑は忙しそうだ。
「迷い猫?」
僕が指定鞄を肩から下ろしつつ、指をさして尋ねると、志筑はこくこくと頷き、
「今朝からずっと敷地内にいるんです。裏口のあたりと庭を行ったり来たりしてます」
 正面玄関は漆喰塀が高いのと、鉄で出来ている扉が大きいので、猫は出入りが出来ない。しかし僕らが普段使う、裏口は小さな柵しかないので猫が出入りできる。恐らくはそこから入ったのだろう。
「首輪してるね」
 僕が首輪をくるりと回すと、鮮やかな黄色の首輪には『大庭コロ』と書かれているのが見えた。首に触れても嫌がらないし、じっとこちらを見ている。人間への警戒心がほとんどないようだ。
「首輪の裏側に、『ワクチン5/26接種済』『レボリューション投与済』って書いてあるんですよ」
 志筑が首輪を外して、僕に見せてくれた。
「この家の猫にもレボリューションやってるんで分かるんですけど。そんなに安い薬でもないし、ワクチンのように定期接種が必須の薬ではないんですよ。いわゆる寄生虫やノミ、ダニを駆除する薬です」
志筑が猫を捕まえて、首の後ろに薬剤を点滴しているのを見たことがある。恐らくはそのことだろう。その猫はなされるがままに、志筑に撫でられている。学ランは黒いので、黒猫なら触っても問題はない。だから僕もその艶やかな毛に手を伸ばした。
「それで奥様が『ちゃんと世話をしている飼い主のようだから、飼い主を探してあげて』と言ってたので宅配の人に聞いたんですが……この辺りに大庭という姓の人はいないそうなんです」
 あまりいない姓なので、見つかりそうなものではあるが。
「早く飼い主さんのところにかえしてあげたいですね」
……もしかしたら、この猫は愛想をつかした飼い主に遠くへ捨てられてしまったのではないか。そんなことを僕は思った。長期休暇に差し掛かると、旅行が出来ないからという理由で猫を捨てる人間がいるらしい。大切にしていたとしても、すぐに手放す人間が多いのも事実だ。
それでも平べったくなって、地面に横たわる猫がもとの家に帰れれば良いなと思った。家から脱走してしまったのであれば、やはり飼い主さんも探しているだろうし。でもどうやって探せば良いのだろう。
僕は暫く猫を見つめてから志筑に、
「僕、ポスター作ってみる。クラスでそういうの一番うまいし」
 と提案した。

僕は猫が好きだ。しかし人間は嫌いだ。人間は嘘をつく、猫は素直だ。特にメディアは嘘つきだ。猫はメディアの報道しているような動物ではない。ブログに書いてあることがあまりにも嘘くさくて、僕はそのサイトを閉じた。
綺麗好きだなんていうが嘘だ。戻す、戻したものを食べる、粗相をあちこちにする、ゴミ箱を漁る。毛繕いをしているのはあくまで自分の臭いを毛につけているだけだし、なんなら唾液を体にまぶしている。
大人しいだなんていうが嘘だ。毎晩運動会をする、壁と柱で爪をとぐ、障子に穴を開ける、金網を破り脱出する。一日十六時間の睡眠が必要だから、眠っている時間からそのように錯覚しているだけだ。
賢いだなんていうが嘘だ。寝ている人間の布団で大をする、人間の食べ物を奪い取る。大概何も考えていない。眠いな、ご飯食べたいな、おもちゃで遊びたいな、ぐらいである。
だが可愛いとは思う。とても。老いても病気になっても可愛い。どんな姿であれ、可愛いものだ。
懐かないから可愛くない、抱っこさせてくれないから可愛くない、甘えた声を出してくれないから可愛くない。そんなのちゃんちゃらおかしい話だ。
猫は人間のおもちゃではない、と思うし、そんな意見を聞くたびにほとほと人間に嫌気がさす。生き物を飼う資格もないような飼い主に飼われるのはひどく不憫だ。子が親を選べないのと同じで、ペットも飼い主を選べない。
 僕は『中学二年生の数学』という本を机の端に寄せつつ、音楽の音量を上げる。そしてフォトショップを開いた。そこには作りかけのポスターがある。
何枚も撮影したコロの写真をトリミングし、貼り付けたものである。こちらを見上げている姿、のしのしと歩いている姿、ご飯を食べている姿……これだけあれば顔だちや全体の容姿も分かるだろう。そして目立つように、明るい黄色地に上下の赤色のラインを引いている。コロが付けていた黄色の首輪が似合っていたから、この色にしたというのもあるけど。『大庭さん、コロちゃんが迷っています! 十一月十三日に、黄色い首輪のオスの黒猫が迷い込んできました。とても人懐っこくて大きな子です。早くお家に帰れますように。お迎えに来てください』
チラシを眺めていると、廊下の方から大きな鳴き声がした。喧嘩をしているようで、二匹の猫が低い声で唸っているのが聞こえた。恐らくはコロとモモだろう。
コロは猫ベッドで寝る習慣があるようで、他の猫の寝床を奪って喧嘩になるのだ。僕はそれを止めんとヘッドホンを外し、立ち上がる。立ち上がる際に目に入ったコロはとても可愛くて、ああ……ずっとこの家にいてほしいなと思った。

「坊ちゃん、飼い主さんが見つかったんですって。それで今、近所のポスター剥がしてきたところです」
 学校から帰った時、志筑が大量のポスターを手にそう言った。志筑の手の中で鮮やかなポスターが揺れている。
「そう、なんだ」
「なんかここから六キロ先の家の人らしいです。その人の知人が教えてくれたみたいで、もうあと五分ぐらいで来るって話です」
 あまりにも突然のことで僕は言葉を失った。ポスターを貼って一週間、あまりにも音沙汰がないからコロはもう家の子になるのかと思っていたのに。
「……坊ちゃん、コロは私がその方に引き渡しますから」
 僕を気遣っているのがすぐに分かった、そういう時志筑は目の端に皴が寄るからだ。だけどそう言っている志筑だって、辛いはずだ。ブラッシング等して可愛がっていたのだから。
 コロに帰ってほしくなかった。ここで幸せに暮らそう、と言いたかった。でも、
「うん」
 としか言えなかった。そんなことは言ってはいけないと分かっている。そして、僕がコロを引き渡すことが出来ないことも分かっている。そんな決心がつかないからだ。
 僕は俯いたまま、自室に駆け込んだ。鞄を乱暴に床に放り投げ、机に突っ伏す。何も考えたくないのに、頭の中がごちゃごちゃして、僕は足を滅茶苦茶に揺らした。ずっと足を揺らしていると、ブロロロロというエンジンの音がした。恐らく飼い主が迎えに来たのだろう。
そう思うと、無性に悲しくなって椅子を前後に揺さぶった。その拍子に机の上から何かが落ちた。
 それはコロの写真の入ったポスターだった。こちらを向いている、とても可愛いコロ。大きな声に大きな手、黄色い首輪のオス猫。『早くお家に帰れますように』という言葉は母と話し合って、入れたものだ。僕はそれをぼんやりと眺めていた。
 そうだ、元の家に帰れるんだからコロを見送ってあげなくちゃ。少ししか一緒にいられなかったけど、それでも僕はコロのことが大好きなんだから。コロがいるから、家にいるのが待ちきれなかった。コロがいたから、毎日楽しかったんだ。
 僕は慌てて身を起こし、駆けだした。まだ帰っていないことを願いながら、玄関の扉を開けた。

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