見出し画像

外の世界と内の世界

 世の中のルールは強者が作る。強者にとって都合のよいルールが決められ、それをもとに社会は形成される。つまり、強者にとっての理想が叶えられていく。それ自体は悪いことではないと思いますが、その者たちの理想を叶えるには他人の力が必要となるため、強者の思い通りの世界を作る為に弱者は働くことになる。労働は弱者の義務となってしまう。しかし今の時代、労働は骨身を削ってまでしなければならないというわけではなくなってきた。極端な話、やらなくてもいいわけです。機械が人の代わりに働くようになったからです。強者は不満を口にする弱者より、便利で従順な道具を使えば良くなった。しかし、そうなると社会の一員としての恩恵は受けられなくなってしまう。それでは、弱者は生きていけません。ですから、半分半分の考え方をすべきだと私は考えました。要するに、弱者を自覚したものは、弱者の義務として、強者の理想を叶えるが、自分の人生の五〇パーセントは自分達の理想の実現に使えばよい、という考え方が必要ではないかと。
 しかし、弱者が理想を実現させることは非常に困難と言えるでしょう。そもそも、能力が低いから弱者なのです。ですが、能力が低いことは無能ということにはならない。人は無能ではない。やりたいことをする時はそれなりにできますし、協力することができれば、互いに役立つ関係を形成し、理想の生き方を実現することは出来るでしょう。つまり、今の社会で弱さを自覚したならば、強者の言いなりになるだけでなく、弱いなりに意志を強く持つ者同士の繋がりを持って、強者を省いた環境を、強者の参加できない環境を作り出すことで、敗北の連鎖を食い止めることが重要なのだと思います。
 弱い者にとって重要なことは、強者の真似をしないことです。それはつまり、強者の価値観で物事を考えず、人を見下すことをやめること。人を見下すということは犯罪ではありませんし、これによってペナルティが課させるものではありませが、基本的に、人が人を見下したときに問題というのは発生してしまうのです。

●お金について
 お金は、労働し、給料を頂いて、それで好きな物を買える、そういうものです。しかし、実際のところ、お金は労働しなくても入手出来る。資産があればお金は労働しなくても増えていく。いわゆる不労所得です。銀行に預金することで得られる利息も不労所得。不労所得の中でも、この、利息でお金が増えるというのは、はっきり言って構造上の欠陥です。
 というのも、お金というのは、もとは金券、金引換券でした。黄金の総量と紙幣の金額はイコールです。しかし、利息でお金が増えるというのは、黄金の量よりも発行される紙幣が増えるということになります。借金というのは現実的な範疇を超えて膨らみ続ける仕組みになっている。本来お金というのは、紙幣自体に価値があるのではなくて、金と交換できるという、いつでも金にできますよっていうところに価値があった。大量の現物を持ち歩くのは大変ですから。だから便利だったわけです。ですが、硬貨や紙切れに価値があるという思い込みだけで世の中の経済が成り立つようになりました。その点、労働者はちょっとだけ騙されてるわけです。
 労働しなくてもお金が稼げる人と、労働しないとお金が稼げない人というのは、労働しないでお金を稼げる人の方が圧倒的にお金持ちになれる。労働しないとお金を稼げない人は、働いても働いてもなかなかお金持ちになれないようにできている。もちろん、誰でも成功すればお金持ちになれますけど、それはある意味、そういう可能性もありますよって言う成功例であって、よっぽどの人以外はそういう風になれないようになっている。そこがお金という仕組みのトリックで、例えば、不景気で国民がお金がなくて困っているなら、国はお金がなくて困っている国民を臨時の公務員として採用し、なんらかの仕事を与え給料を保障すれば問題は解決するはずですが、現実問題としてそれができない事情があるわけです。結論から言えば、それをするとお金のバランスが崩れます。損をする労働者がいないと税金が集まらなくなり、経済が成り立たなくなってしまう。いまの世の中にあるお金が無意味にならないように、労働者に働いてもらうために、権力者はバランスをとるわけです。
 不景気は、結局のところお金持ちがお金を使わないのが問題なんですね。国が発行するお金はセーブされるわけですから、溜め込んでる人が使ってくれないとバランスが崩れてしまう。お金使ってくれ、お金使ってくれと人は言いますが、貧乏人がお金を使っても世の中の流れはそんなに変わらない。お金持ちがお金を使わないとお金はうまく回らない。しかも、そのしわ寄せは貧乏人に来てしまう。お金がなくなると、貧乏人はもっと働かなきゃと考える。働いてお金をたくさん得なきゃって考えるんですが、それはもう金持ちにとっては好都合です。ようするに、今の世の中は、労働で稼いでる人間が知らず知らず損をさせられているのです。
 お金が貯まれば好きなものを買えて、社会的な地位があがり、勝ち組のグループの中で幸せになれる。社会はそういう風に幸せになることを推奨しているので、お金持ちばかりが幸せになれるわけです。では、負けた人達は不幸にならなければいけないのか、というとそういうわけではありません。お金がなくても、心が満たされればいいという考え方はあります。しかしそうも言っていられないほど困窮し、命の危機が迫れば話は変わってくる。人類は長い歴史の中で何度もそういう状況を経験し、煮詰まる度に革命を起こしてきました。圧制に耐えかねた庶民が指導者に立ち向かうわけです。これはごく自然のこととして歴史上に繰り返されてきたことですが、今の日本人が暴力的な革命を起こすイメージははたしてあるでしょうか?
 そもそも私たちは、そこまで不幸ではありません。貧乏であっても、なんとなく楽しく生きていけます。ある意味家畜のように、牙を抜かれて、角を折られて、飼いならされている。我々が反旗を翻さないことをいいことに、エリート達は今も優位で幸せな日々を送っている。そんなに格差があるにもかかわらず、日本人には今すぐ革命を起こすというモチベーションはありません。ですが、革命はせずとも、今の時代に合った行動は起こすべきです。それは人々が結束し、お金を節約するということです。あまり稼がずに、上手くやりくりすることです。
 私達が抱える問題の根本にあるのは、お金を持っていないということです。勝者に比べお金を持っていないから、勝者の言いなりになるしかない。ですが、なんでもかんでもお金で買わなきゃいけないということから少し脱却することができれば、その優位性がゆらぎます。例えば、私達が色々なものをシェアし、持ち寄ったものを問題なく共有できれば、余計なものを買わずに済みます。それでお金が節約できます。自分の持ち物をすべてシェアするなんていうのは無理ですが、五〇パーセントシェアできれば、生活の負担は半分ほどに抑えられる。シェアすることによって人間関係が豊かになれば、生活が豊かになっていく。
 これから税金が上がり、物価が上がります。さらに、少子高齢化の問題が待っています。独居老人の孤独死が増えるでしょう。親の介護をするために仕事を辞めざるをえない人も出てくる。そういった局面において、一人では絶望的ですが、同じ境遇の者同士が力を合わせるならば、シェアできる部分は出てくるはずです。これから先、お金を持っている老人達はなんとかなるでしょう。私達より下の世代には若さと希望があります。中年世代がわりをくっている状況です。下の世代には未来があり、上の世代はやることやってしまって満足気ですが、その負債がどっさりと間の世代に圧し掛かってきます。しかも、その中でも独身者は孤独死まっしぐら。これはこの先、必ず大きな社会問題になります。社会が問題視し始めたときに慌てても、それでは手遅れです。いま、お金をあまり持たない人達は、そのことを自覚し、隠さずに公表して、苦も楽もシェアして助け合うべきなのです。そうすることで社会からの冷遇に抗わなければ、この先を生きることは困難です。

●しあわせになるために
 「しあわせ」には二通りあります。欲を満たす「幸せ」と、他者との関わりを意味する「仕合せ」です。
 「幸」は中国由来の象形文字で、手枷を意味しています。上と下の十字がボルトで、間に両手を挟んで締め付ける手錠です。囚人が、苦痛から開放されるという意味があり、広義で、不満が解消されることを意味しているようです。ようするに、幸せとは快感のことです。美味しいものを食べて、性的欲求を満たして、健康を実感して、なんらかの不満を解消させればいいのです。人の欲望にはリミッターが存在しないので、一度快感を得るとさらに大きな快感を求めるようになります。どんどん派手に、露骨になっていきます。二流より一流を求め、一流の中でもさらに至高のものを求めます。人の世界がこれだけ発展した理由は、まさしく欲望によるものだと言えるでしょう。欲望とは、さらに高みを目指す生命力そのものです。肉体の欲望を満たした生き物は強さという報酬を得るのです。人類の発展を考えるなら、欲望こそ最も重視すべきものだと言えます。
 一方で、誰かと一緒にいることで得られる「仕合せ」には、欲望は不要です。孤独な心を満たしてくれる、自分を肯定してくれる相手と過ごすことで、安らぎを得られればそれでいいのです。一つの命としてではなく、全体の一部としての充足感です。それは、平和と表現されることもあります。また、愛と表現されることもあります。愛に似た感情に、恋がありますが、その使い分けは明確ではありません。よく、愛は真心、恋は下心、なんていいます。恋も愛も心という字が入っていますが、愛は真ん中に、恋は下についているので、愛は相手を思いやる気持ち、恋は性的に相手を求める気持ちだと揶揄しているわけです。
 恋は身勝手なもので、相手に求めるものだという人もいます。それはようするに、幸せを求める感情ということです。愛は相手をいたわり、おもいやることだと言われています。ときには自己犠牲だという人もいます。いずれにせよ、愛とは、尊いものです。なぜ尊いかと言えば、愛は失われやすいからです。何かを愛するには、失うことを恐れず、裏切られることも覚悟して、信じ続けなければなりません。
 何かを信じる方法は、二通りあります。
 一つは、思い込みです。こうだ、と強く思い込み、確信する方法です。思い込みで確信が持てれば、他者の意見にとらわれない信念を持てます。そうなると、他人の考え方は対処するものです。相手の本心はどうでもよくなります。自分の信念を貫くことが重要で、どんなに裏切られようとも構わないと考えられます。
 もう一つは、情報を頼って信じる方法です。意見を取り入れ、情報を収集し、法則を検証し、比較的な正解を導き出して信憑性を高めます。相手を疑う気持ちは拭い去れませんが、思い込みよりは現実的です。
 愛と一言で言っても、その感情は人によって違います。信じ方が違うのです。信じ方が異なれば、理解した意味も異なるのです。愛に限らず、人の感じ方は、たとえ同じ言葉を使っていても、それが同じ内容だとは限りません。自分が見ている青色が他人にとっての赤だったとしても、会話の上で何も矛盾が生じないのと同じです。
 たとえば、虹を見て七色だというのは日本の常識ですが、海外では五色が多勢です。場所によっては三色、二色ということもあります。昔の日本人も、緑色と青色の区別がありませんでした。緑を青と呼んでいたのです。もっと実際の話では、色盲の人が見る色が普通の人の見ている色とは違うことがあげられます。見ている色が違っても会話上は矛盾なく成立してしまうので、大人になっても自分が色盲だという自覚がない人は意外と多いそうです。人の感情にもそれに近いことが起こっているでしょう。感性は人によって異なるのです。それなのに同じ言葉で共有してしまうと、相手も同じ感覚を抱いたんだとあっさり信じてしまうのが人間です。その結果、齟齬が発生します。
 誰だって自分の心にあるものが真実なので、自分とは違う感覚で自分の大事な物について語られると、それは違うんじゃないかと疑問を持ちます。言葉にするからおかしくなるわけです。それぞれの考え自体はその人にとって間違っていないのです。
 言葉にしなければ相手に伝わらないし、自分の気持ちも自覚できません。なのに、言葉にすれば嘘っぽくなります。言葉を信じると、いずれ人は相手を疑うようになります。自分の本心すら、言葉にすると少し違うものになってしまいます。言葉は信用ならないものなのです。もし相手を信じられなくなったら、その関係はおしまいです。仕合せを維持するためには、どうにかして相手を信じなければなりません。重要なのは、言葉に頼らずに理解すること。自分なりに確信し、その意思を強く持つことです。


●具体的な見方と抽象的な見方
 言葉は具体的なものです。対して、人の感情は抽象的です。世の中にある全てのものは、具体的と抽象的という二つの側面を持っていると考えられます。それは、点と波、と表現され、デジタルとアナログ、とも言われます。
 絵画の話で言いますと、写実画と抽象画というのがあります。写実画は立体的で明確に表現されているので誰もが一目でその凄さを理解できます。これは意味を具体的に捉えられたということです。問題となるのは抽象画です。これはらくがきのようであり、わけがわからないものが多く、はっきりとしないため、多くの人が頭を悩ませるわけです。考え方としては、写実画はデジタル的であり、抽象画はアナログ的ということです。デジタルの良さとは、なんといってもはっきりしていることです。論理的で、正確で、言葉にできます。アナログはその逆です。しかし、アナログにはアナログの良さがあります。アナログは、デジタルと違って、本質的なのです。
 人の感情を表現するときに、意味のはっきりしたものを描いてしまっては、それは記号であって感情ではないとなるわけです。「赤」を表現しろ、というテーマがあれば、赤い絵の具を一面に塗れば簡単にみんなが納得するでしょう。しかし、色盲の人はみんなが感じている赤には見えていません。本人としては、いつもの赤だなぁ、と納得できてしまってますが、それでは赤の本質を表現したとは言えないと考えられるわけです。よって、抽象的な表現では、熱や、怒り、燃え上がる炎といった赤っぽい何かを混ぜ込んで表現します。すると、あ~これとこれの共通点のことか、と感覚的になんとなく伝わります。実際の炎はどちらかと言えば黄色いことが多いのですが、赤を表現するのに使えるのです。この感覚的なニュアンスを利用します。一般的にはまどろっこしい表現になりましたが、こちらのほうが感覚的なので、本質とするものが伝わるようになるのです。感覚的にわかるというのは、言葉ではなく、意味としてダイレクトに理解されるということです。つまり、受け取る側が自分なりに結論を出したということになります。はっきりと表現されたものは、分かりやすい反面、記号として意味を覚えただけであり、それは感覚的には嘘っぽくなるのです。
 言葉は具体的で、人の感情は抽象的です。ですから、言葉を使っていると、だんだんしっくりこなくなってきます。記号として覚えた意味と、実際に理解した意味にずれが出てくるからです。言葉は正確な反面、偽物であり。感覚は曖昧な反面、本物です。人間は言葉と感覚で生きているので、人と人のコミュニケーションも二通り存在します。ビジネス的な言葉のコミュニケーションと、家族的な共感のコミュニケーションです。その二つはどちらも両立すべきものです。世の中は具体的に理解し、かつ抽象的に感じることで、言葉と感覚を自分の中で一致させていかなければ、なにかがどんどんおかしくなっていくのです。

●責任
 社会の一員として生きるということは、何かしらの責任を負うということです。これは常識すぎて、わざわざ教えては貰えません。だからこそ見失いがちなことでもあります。責任とは何でしょうか。辞書によると、一、立場上当然負わなければならない任務や義務。二、自分のした事の結果について責めを負うこと。特に、失敗や損失による責めを負うこと。三、法律上の不利益または制裁を負わされること。特に、違法な行為をした者が法律上の制裁を受ける負担。主要なものに民事責任と刑事責任とがある。とあります。
 「責任という言葉は、それが用いられる文脈に従って、多少とも相互に異なった内容を指す。哲学的概念としての責任は人間の自由と相関する概念であり、政治的概念としての責任は立憲主義と相関する概念である。しかしここでは、われわれの日常生活に最も関係の深い道徳責任について述べる。〈法は道徳の最低限〉という表現があるとおり、法、とくに刑法の規定する罪、たとえば殺人、窃盗、誘拐、詐欺などは、人が犯してはならない道徳的規則の最も基本的なものである」という補足説明もあります。
 まとめると、立場上の義務を果たすこと、失敗や損失の責めを負うこと、法律を違反したときに制裁を受ける、もしくはお金で決着をつけること、という三つがあるということです。さらに、哲学的には自由と関わりのあるものであり、政治的には立憲主義に対するものであり、道徳的にはこれをやったら人間として最低っていうことはわかるよね? ということのようです。
 責任という言葉の意味は誰にとっても当然すぎて、わざわざ説明しなくてもわかるよね? という感覚で使われがちですが、意外と深いテーマです。
 一言で言えば、大人と子供の違い、とでも言いましょうか。人はいつ大人になるのか。ということは意外と曖昧で、年齢が二〇歳を越えたから、体が大人になったから、異性と付き合っているから、結婚したから、子供を産んで育てているから、物事を論理的に判断できるから、作法を守れるから、お金を自分で稼げるから、困難に立ち向かって大人顔負けの努力でそれを乗り越えたから、など、どれも大人になったな、と言えることですが、どれか一つ達成したくらいでは大人としては不十分という感じがあります。体だけが大人のアダルトチルドレンなんて言われ方もありますし、子供のまま成長できない発達障害という言葉も定着しました。大人とは誰のことを言うのか、今の世の中は意外と頭を抱えています。
 宮崎駿が息子・五郎の作った〝ゲド戦記〟を見たときに、「大人になっていない」と一言つぶやきました。宮崎駿の実質的な弟子である庵野秀明は、自身の代表作〝新世紀エヴァンゲリオン〟の中で、大人になれという父親に対して、「僕には、何が大人かわかりません」と答えました。非常に対照的な話です。結局大人が何なのかは謎のままです。
 そういった点で言うと、大人とは責任能力の有る無しで考えるのが無難だと、私は考えています。自分の立場を理解して当然として役割を果たすこと。なにか問題が起こったときはその失敗を認めて、被害者の納得のいくように問題に決着をつけること。法を理解し、決められたルールに則ること。さらに、自由を得るために努力すること、間違いに対して正々堂々と反抗すること、人間らしさを保つこと、などが出来て、心技体の備わった大人になれる、という考えです。
 大人には、心としての大人、技としての大人、体としての大人があると思います。技としての大人というのはようするに〝大人として振る舞う〟ということです。

●運の良さ
 人生は運次第だと考えている人がいます。宝くじが当たれば働かずに遊んで暮らせるし、逆に運が悪ければ何かの拍子にあっさり死んでしまうこともあるでしょう。
 運というのは、確率として計算することができます。例えば、サイコロは一つの目が出る確率が六分の一です。単純に六回振れば一回は出るだろうなぁ、ということです。しかし、実際は六回で確実に出せるわけではありません。一〇回振っても出ないことだってあります。確率的に、サイコロを一〇回振って狙った目が出る確率は八三・七パーセントしかありませんので、一〇〇人で一〇回ずつサイコロを振っても、一六人程は狙った目を出せないものです。しかし、サイコロは物質としてそこにあるものなので、振り方によって出る目が決まるものでもあります。野球のピッチャーがストライクを投げるのと一緒で、同じ角度で、同じ力加減で、全く同じように振ることが可能であれば、同じ結果になるはずです。要するにコントロールの問題で、微妙な力加減ができないから、偶然の結果に見えているだけなのです。世の中には本来、偶然というものは存在しません。必ず、全ての物質が完璧な物理法則によって、確実な結果を出します。
 運というものは、人間が認識できない部分での変化を察知できないことによって、計算できなくなってしまうからわからなくなる、認識の限界に過ぎないのです。
 世の中には運が悪い人がいるものです。見ていると、運が悪い人というのはどうも、計算が苦手な人が多いようです。計算が得意だからといってすべての不運を回避できるというわけではありませんし、けがをしたり病気にならないで済むということではないのですが、誰だって下手な行動をとれば運とは関係なしに失敗するのに、計算ができない人はそれを運が悪いと考えるため、不運だと自覚しがち、ということです。
 ここでいう運とは、ギャンブルであったりとか、お金の稼ぎ方であったりとか、計算できる部分は他の人よりもうまくこなして結果に結びつけやすいという話です。自分でコントロールしてるんだから運とは別だろう、という反論もあるでしょうが、運というのは、無駄を省き、効率を考えることで、自ずと良い結果が巡ってきやすくなるという流れのことでもあるのです。文字通り、流れを利用し、事を運ぶわけです。良い行動の繰り返しが良い結果を生む、それが続くと、何も考えていなかった人との間にいつしか大きな差が生じます。その差があまりにも大きいので、不幸を自覚する人は自分ばかり何でこんなに不幸なんだろう、と考えこんでしまいます。不運な人には、運の流れが見えていないのです。
 運というものは、ある程度ならコントロールが効きます。現象は物理法則によって成り立つものなので、法則を理解すれば運は偶然ではなくなるからです。ただし、人間は万能ではないので、自分が関わらないことを理解したり、物理現象を完璧にコントロールしたり、物理法則の干渉を瞬時に暗算したりはできません。だから、最終的には感覚に頼ってのどんぶり勘定になります。占いや予言みたいな、センスで乗り切る話になります。生活の中で、運が悪いことが続けば、次は運が良いことが起こるだろうなぁという感覚を日常的にやっていると、それなりに物事の周期が読めてくるものです。数学的な計算というよりは、直感的に予想して当てはめる感覚なので、計算が得意とも少し違いますが、数の感覚が強い人ほど誤差が少なくなるため、予想があたりやすくなるでしょう。
 運というのは努力しなくても良い結果が得られるものなので、頑張りたくない人にとっては最高です。何もイメージしなくてもいいし、他力本願なので楽です。しかもサプライズ感があります。
 基本的に、人生は何でもイメージ通りにする方が自分らしく生きているということになるのですが、自分が予想もつかないところから貰えたプレゼントには特別な感動があるものです。プレゼントは自分で買ったものよりも価値が高く感じられるわけです。だからこそ、人に何かをしてあげるときも驚かしてあげようとか、予想を超えようとか、そういった価値の生み出し方が考えられるのですが、そこが難しいところでもあります。
 世の中の偶然というのは思考が追いつかない人間が味わうものです。物事を理解できる人ほど必然で結果を見るようになります。ラプラスの悪魔、というのがそういう話です。すべての未来を読む悪魔にとって未来は常に絶望的です。それと対照的に、常に運だけを求めて、何かいいことが起こらないかなーと期待して生きるのも、結果的に絶望を多く味わいます。思考放棄して結果だけ期待してるわけですから、何もしてないようなものなので、思うように結果が得られないのです。
 スポーツなどで結果を出そうとしたときに、失敗するんじゃないかなぁ、と考えると、大体失敗するものです。自分が行うことは不運云々より、本人の考え方による影響が大きく結果を左右します。
 世の中には不思議なくらい運がいい人がいます。なんでそんなに運を引き寄せるのかを観察すると、考え方に共通点が見つかります。それは、イメージの強さです。ここぞという時のイメージが強烈で、出来る、という確信があるようです。常に勘を働かせて物事を考えながら、瞬間的に確信することで先のことを思い通りにする。そういった感覚を身につけている人は運が良い傾向があるように思われます。
 人生は自分のイメージ通りに実現させていくことが基本です。しかし時に予想もしないことが起こるから、楽しいものでもあります。逆に、予想もしないような不幸に見舞われることで絶望を味わいます。全て予想通りであればすべては当たり前です。希望も絶望もなくなります。ただ当たり前のこととして、楽しいか、苦しいか、だけです。

●楽しいことをする
 楽しさには、二種類あります。一つは、能動的な楽しさ、もう一つは、受動的な楽しさです。
 能動的な楽しさとは、自分で楽しいと決めることです。簡単に言うと、自己暗示です。いま最高に楽しい! と信じることで人は本当に楽しくなります。口に出して楽しいと言い続けることで、辛いことであっても徐々に本当に楽しくなってしまうのです。それが能動的な楽しさです。
 受動的な楽しさは、他力本願です。期待と裏切りの反復で感情がぶれまくりますが、その波を楽しむ姿勢によってありのままを味わうことができます。小さなことを敏感に察知して、感受性豊かに大きく深く捉えて味わう、アートの世界です。それが受動的な楽しさです。
 はたして、自分にとってなにが楽しいのか。それを理解することは、人生を充実させるためにとても重要なことです。楽しさとは、気持ち良さとは少し違います。幸せとも少し違います。わくわくするような、なんらかの充実を感じさせるものです。なぜ人は山を登るのか、そこに山があるからだ、なんていいますが、ようするに山を登ると楽しいのです。やりきったとか、ゴールしたとか、達成感があればどんなことでも人は楽しめます。目標を持って、それに挑み、自分の理想を実現する。それは他人にとって理解できないことでも構いません。自分の力を試すことであったり、培ってきたものを発揮することだったり、何かを集めることだったり、つくることであったりします。ようするに、自分を使って何らかの可能性を実現することが出来ればいいのです。
 例えば、サイコロを五個同時に振って全部一の目にする。そんなことでも実際に達成しようとすれば数時間か、運が悪ければ数日かかります。数日かかってようやく達成できたときには、よっしゃあ! と声を荒げ、画像に撮って保存したくなるほどの楽しさを味わえることでしょう。おそらく、その画像を他人に見せても誰もすごいとは言ってくれないのですが、やりとげた本人にはその凄さが実体験としてわかるはずです。よし、今度は六個に挑戦しよう! などと更なる高みを目指したくなるかもしれません。
 そういう誰にも迷惑を掛けない、誰にも評価されないことであれば一人でも達成できますが、もっと誰かに理解される、共感できる楽しさを得たいと思ったら、いろいろと難しいことも考えなくてはいけません。社会のルールを理解する必要が出てきます。世の中の、人が関わることにはすべてにそれを管理する権利者がいるものです。そこにあるルールを学び、許可を得なければいけません。許可を得るために、資格が必要になるかもしれません。資格が不要でも、目標を達成するには実力が必要です。使う道具も揃えなければなりません。それらの準備が万端でも、それはスタート地点に立ったというだけです。目標を達成するまでに要する時間やタイミングを考え、スケジュールを立てる必要があります。中間目標を考え、さらに短期目標を設定し、一つ一つ目標をクリアします。それらを順調にこなせたなら、あとは、どれだけ継続するかです。人生を楽しむためには、終わらせないことが何よりも重要になってきます。
 人生を楽しむこと。それはまさしく登山です。頂きに登れば楽しいというだけの話なので、普段着のまま無計画で無酸素登頂しても、いいといえばいいわけです。反則だろうがなんだろうが、やって楽しいのであればやる価値はあります。しかしそれだと、まともに楽しめたのかという疑問が残るし、反則扱いで客観的な評価が得られないのも、もったいない話です。どうせやるならきちんと記録が出るものの方が充実感を得られると思います。無茶なことをすると、まともに頑張っている人からは非難され、場合によっては妨害される可能性が高いので、色々と面倒が起こって嫌な思いをすることが予想されます。ましてやそれが犯罪行為であれば、絶対にやるべきではありません。が、それが革命だというのならば、他人が口を出す話ではない場合もあるので、なんともいえません。
 登山に限らず、冒険にはリスクが伴うことを忘れてはいけません。準備不足では運に頼る部分が増すので失敗する確率が高くなります。一般的に、何事も準備が八割と言われています。何かをするのに、入念な準備をするに越したことはないのです。
 リスクを負ってまで冒険をする価値はあるのか。それは本人次第です。山の高さは低くても楽しめるので、小さな目標をささやかに楽しむのが無難だとも言えます。それでも楽しさに変わりありません。ですが、登る山は高ければ高いほど楽しいに決まっています。登ったからといってどうという話でもないのですが、何かを楽しむこと、ただそれだけの話に本気で取り組むことが、どうやら人生を充実させるためには必要なようです。

●本気になる
 例えば、筋肉トレーニングで、痛みが限界を超えて、体が動かなくなってしまう時に、そのまま、体が壊れてもいい、死んでも構わない、そう決意して、痛みを無視してトレーニングを続けます。すると、死ぬつもりでやったのにもかかわらず、死ぬ前に体が動かなくなって終わります。本気で死ぬ気だったのに体が動かなくなってしまったことに、悔しさが湧いてきます。あれほど強く決意したのに、死ななかった自分の決意の甘さに怒りが沸きます。そして、再度死ぬ気でやります。今度こそは絶対に死んでやる! と決意します。ですが、それでもなかなか死ねません。凡人であればどんなに死のうと思っても筋肉トレーニングではそうそう死ねません。死ねないとわかった上で、何度も何度も、諦めずに死ぬ気でトレーニングをし続ける。すると、自分の肉体が強くなってしまい、さらに死ねなくなります。死ねないどころか逆に強くなってしまい、笑いがこみ上げます。苦しいなぁ、嫌だなぁ、と思いながらトレーニングをするとなぜかこうはいきません。不思議と体は簡単に故障します。本気でトレーニングをすると体は思っている以上に壊れません。
 筋力的な限界とは別に、精神を追い詰めることでも本気になれます。例えば、戦うという発想すら思いつかなかったような相手に立ち向かう、とかです。親とか、兄、姉、先輩、先生、上司などです。普通に考えたら、生活基盤を制限されたりとか、クビだとか、退学だとか、暴力だとかで自分の人生をたやすく狂わせる権力者を相手に本気で対抗するのは自殺行為です。それをあえてやります。もしくは、勝てるわけがないと思ってる相手に対して、死ぬ覚悟で立ち向かう。たった一度の人生、そういった相手に立ち向かって死ぬ方が、何もせずに死ぬよりもマシだと開き直って、自分をバカにした相手を本気で殴ってみるとか、命がけで復讐するとか、そういうことをやってしまいます。命がけの行動には勇気が必要です。勇気ある行動をとると、普段は潜んでいる自分の本性が目を覚まします。が、その結果は自己責任です。たぶん後悔することでしょう。どうしても本気になりたければ、という話です。
 本気になるコツは、集中力を高めること。それには、過去と未来を完全に断つことです。人は時間の中に生きています。常に、無意識で過去と未来のことを考え、現在の行動を決めています。つまり、無意識で、未来や過去に思いを注いでいる限り、今に注ぐ力は弱くなってしまうのです。過去を断って、未来だけを考える時、人の前進する力は高まります。未来を考えず、過去のことばかり考えても力は高まります。マイナス方向の力なので深刻なネガティブになりますが、それをバネにして、前進する力に変換することも可能です。その両方、過去も未来も断つと、人はどうなるでしょうか。無意識での守りを完全に捨てたとき、人は今、目の前にあるものに一〇〇パーセントの力を出せる状態になります。先のことも、これまでのことも、何も考えないのです。全てがゼロの状態で、今、目の前にあるものだけに集中します。自分の体の中にある全てのエネルギーを使いきって、燃え尽きてしまうことを決める。人生の全てをここに注ぐ。そのスイッチが入った時、人は本気になります。どんな人でも、全てを忘れ、今に全てを込めるとき、本気になることができます。
 本気の状態では、絶望も、希望もありません。湧き上がる雑念をすべて押し込め、その場で死ぬことすら躊躇しません。そうなったら、本気の中の本気です。ただし、本気を出したあともわりと普通に時間は流れるので、気が抜けると覚悟の反動で精神がふにゃふにゃになることがあります。本気を出した勢いで体を壊してしまったり、取り返しのつかない事になってしまったと後悔するかもしれません。ですが、それでも、自分の本気というものは発揮させるだけの価値があります。本気を出すと、それが自信になります。自分の中に、自分が想像もしないようなエネルギーが存在していることが体験として理解できます。

●自信
 宗教を持たないことは世界的に見ると普通ではありません。ほとんどの日本人は無自覚であっても、基本的には仏教徒です。死んだらお経を上げられ、戒名をもらい、お墓に入るでしょう。それはあの世での活動に必要だからです。死んだあとも生きるつもりでいるのです。そういった観念はどうにも根拠のない妄想ですが、世界的に見るとそういう考え方がメジャーです。宗教とは何か。妄想にとりつかれ、呪文のような言葉を唱えて、神に祈りを捧げて、死後の世界で幸せになるために現実を犠牲にして修行するイメージがありますが、そういった信仰に基づいて行動する人間は、人間として強いことだけは確かです。宗教は人を強くする。信念を持ち、考えに拠り所を持って行動をすることが人間の能力を発揮させる。人は、何かを信じなければどうしようもない生き物です。嘘でもなんでも構わない。神様でなくてもいい。お金でも、カリスマでも、アイドルでも、社長や偉人や両親でもいい。なんなら、自分自身でも構いません。何かを信じることで人は根拠を持って行動できるようになる。だから私達は生きるために何かを信じなくてはいけない。
 何かを信じる。頭ごなしに信じろと言われて信じられる人なら簡単な話です。私達は、情報にまみれ、多くのものが嘘であることを知り、単純に信じることが馬鹿だと学び、そして疑うことが日常になってしまいました。この世界は、数十年前とはあきらかに違います。世界中の常識が入り混じり、さらに常識が作られます。常識を理解していないと馬鹿にされます。馬鹿にされたくないから、常識を振りかざして他人を馬鹿にします。人を見下してしまうのです。
 馬鹿とは何か。それは知識を持たないことではありません。馬鹿とは、馬鹿にされる人のことです。人単体では馬鹿とは呼ばれません。馬鹿にする人によって馬鹿になるのです。
 私は、馬鹿には三つの段階があると考えています。一、馬鹿にされる馬鹿 二、馬鹿にする馬鹿、 三、馬鹿を演じる馬鹿、です。人は他の人よりも賢くなりたいので、他人を馬鹿にするのですが、その仕組みに気づいた人は馬鹿を利用して、馬鹿を演じて馬鹿を満足させて利用します。馬鹿を演じることで意図的に自分の価値をコントロールし、馬鹿を相手に優位に立ちます。ヒエラルキーとして、頭の悪い馬鹿の上にそれを馬鹿にする馬鹿がいて、その馬鹿達の上に馬鹿を演じる馬鹿が立っています。
 すべての人間は、成長の過程にいる限り、昨日の自分は今日の自分より馬鹿です。成長する人と比べ、成長しない人は馬鹿です。どんなに賢い人でも、プライベートでは馬鹿です。馬鹿みたいな勘違いをして、ミスをします。生きている限り、すべての人を馬鹿にすることができます。そんな中で、自分に馬鹿な所があると悟った人だけが、賢くなろうと努力します。向上心がある人が、その瞬間だけ賢くなれます。賢い人とは、自らの馬鹿を認めて成長しようとする人のこと。そういった人は、他人に馬鹿にされても自覚があるので、それを笑いに変える強さもあります。
 何かを信じなければ人は強くなれないのに、何かを信じて思考停止すると馬鹿になります。馬鹿になりたくないからと何も信じなければ人は弱くなります。その間で優柔不断になると中途半端になります。人間はいつだって中途半端です。他人の宗教を否定し、憧れた大人に裏切られ、仲間も去っていく。趣味を共有できる人も気づけば消えていく。孤独で中途半端で弱い生き物。私は、そんな人間の考えを言葉にすることにしました。私は世界を眺めて、本を読んで考えました。教えられたものを信じるのが苦手なので、自分なりに考えたのです。皆さんにも、同じように、自分なりに考えてもらいたくて言葉を書きました。
 世の中の常識を信じ、お金を信じられる人は幸せになれるでしょう。しかし、それらすべてを疑ってしまうのが私達です。情報が多すぎて、真実が特定できない。私達は常に考え続けることで自我を保つ弱い生き物になってしまった。情報に踊らされ、他人を見下し、馬鹿にして、ぎりぎりで自尊心を保って生きる、みっともない生き物です。私達は、底辺です。私達だけは他人を見下してはいけないのです。私達は、情報に踊らされてはいけない。自ら考え、価値を見出さなければならない。そして、同じ価値を共有する仲間を持たなければならない。私達は馬鹿ですが、思考停止はしないのです。
 私達は、ただ生きているのではなく、数億年生きてきた先祖が伝えてきたメッセージの代弁者としてここにいる。誰にだって先祖がいます。おばあちゃん、おじいちゃん、ひいばあちゃん、ひいじいちゃん、もっともっといます。一〇世代遡ると、両親と祖父、祖母の数は合計で一〇二四人になります。そのそれぞれに、一〇世代遡ると一〇二四人います(ときに親と祖父、祖母が同じ場合もありますが)、その全員の遺伝子を集約させたのが「私」。遺伝子のなかには、これまで地球上に存在した数億、数十億の先祖の人生がつまっています。それは、ただ生きているだけではまったく自覚できません。宇宙のはじまりから、生物の生きた歴史、人間の歴史、全体を考えることでなんとなく解ってきます。
 自分の体のなかには、生命の起源から続く、数多くの血が巡っている。血は意思を持って口論し、遺伝子の中で会議が起こっている。この体をどうするか、すべての細胞が議論し、もっとも最善となる行動を常に考えているはずです。武士だった人、農民だった人、国のトップだった人、お母さんだった人、お父さんだった人、人間じゃなかった生き物が大多数、声を上げている。意見が統一されるわけがありません。そのすべての集合体として、人はいつも結論を出してきました。「いまは、私が主役だ」と。あなたには決定権がある。すべての過去を背負って結論を出していく。

●進化する生命
 人は進化というものが、強さを追い求めた結果得られた、と言う認識を持ちがちです。しかし、進化というものはそういった性質のものでは、実はありません。進化というものは、生き物が変わらざるを得ない状況で、やむをえず環境に適応した結果です。
 考えてみてください。あるとき、海の生物が陸に上がりました。その生き物は、なぜ陸に上がったのか? 陸に憧れたから? いえ、彼は強い生き物に追いやられ、餌がなくなってしまったから、仕方なく這い上がったのです。あらゆる生物に言える事で、人間にも言えることですが「強ければ変わる必要なんてない」のです。力があればドンと構えて、弱い方がその周囲で動き回り、働く。王は動かなくてもよい。例えば、ゴキブリという虫は、恐竜が生きていた時代にはすでにあの形だった。その時代の地層からゴキブリの化石が見つかるそうです。あの形のままです変わっていないのです。変わる必要がないくらい、完成しているということです。ただ、ゴキブリの中にも強いゴキブリと弱いゴキブリがいて、弱いゴキブリは縄張りから追いやられてしまう。病気だったり、貧弱だったり、生まれながらの劣等を抱えていたりしたら、まともには生きられない。弱いなりに、何とか生き残る道を探さなければいけない。そうすると、生きるために別の道を見つけざるをえなくなり、進化せざるをえなくなります。
 人間は、野生動物に比べると非常に弱々しい肉体をしています。それもそのはず、人間は多くの敗北を味わってきた弱い生き物の末裔です。体が弱いから道具を使うことを覚え、頭を使わなければ生き残れないくらいに追い詰められた。さらに、人は自らビタミンを作る機能が壊れています。これは、大昔に人の祖先が遺伝子異常をきたしたからだといわれていますが、他の動物であれば自ら作りだせるビタミンを、ほかの生き物を食べることでしか補えない生き物になってしまった。だからこそ、雑食で食欲旺盛な生き物になってしまったのかもしれません。遺伝子異常がたまたま強い固体を生み出すこともあるでしょう。しかし、基本的に進化とは、敗北の歴史と言えます。敗者の工夫の積み重ねなのです。人という種族は、敗北を重ねて進化し続けてきたわけです。
 ほとんどの敗者は変われずにただ死にます。弱いですから。ただ、敗者なのに生き残る者が現れる。適応に成功した者です。それまでの自分の生き方をガラリと変えて、無理やり別の生き物になろうとする。他の生き物が食べたがらないものをあえて食べる。その点、パンダやコアラなんかが分かりやすいですね。パンダはネコ科ですから、本来草を主食にする生き物ではないんですが、笹を食べます。ですが、一日に二〇キロ食べてもたった四キロしか吸収できません。栄養の効率が悪いのでゴロゴロ寝転がって過ごしています。コアラもユーカリを食べますが、ユーカリには毒があるので毒を解毒するのにものすごいエネルギーを消費するらしいです。かなり無駄が多い生き物です。でも、これこそが進化です。他の生き物が食べない物を食べることによって生き残る。それが出来る生き物が進化してきたのです。
 人間でも同じことが言えます。人と人との生存競争です。例えば、モテない人が二次元に走ることが、考えようによっては進化の前兆と言えます。モテない人は架空の異性に対して歪んだ欲望を抱えていく。その結果、漫画とかアニメとか、いわゆるオタク文化が進む。そして、いまや日本のアニメや漫画の技術は世界でもトップレベルに達しました。しかし本来、これは女性を諦めた敗者のやむを得ない情動から生まれたもの。モテる人達はそんな文化に興味を持たない。勝者は現状に満足できている。勝者の価値を享受できない敗者だけが、新しい価値を工夫によって生み出す必要に迫られている。勝者が価値を貪り、敗者が価値を生み出すということ。そして、価値を生み出した生き物だけが進化していく。そして進化した者は、生物として新たな次元に達することになる。

●人の宿主
 一般的に人間は頭でものを考えていると言われています。頭を損傷すれば知能が損なわれるし、何か考え事をしてる時には脳内に電気が流れているからです。そういったことで人間の知能というものが脳の機能によって生み出されてるっていう事はもはや常識です。そういったことが明らかになる前は、人間は心臓で物を考えてると真面目に考えられていたそうです。心臓に心という字が入ってるのはそういった理由です。しかし、最近新たな研究で、人間の腸にも脳のような神経細胞が見つかったという話がニュースになりました。これは何を意味しているのか。つまり、実は人間の腸も、脳とは別に考え事をしているということです。
 遡れば、そのむかし人は原核生物と呼ばれる細胞一個分の生き物でした。そこにミトコンドリアがくっついて、酸素から莫大なエネルギーを生み出すようになり、更に効率を求めて多様化し、より多くのエネルギーを獲得できるように形を変えていきました。それがエスカレートした結果、他の生き物を捕食するという形に至ったわけです。その生き物は、口と腸と肛門で出来ていて、ちょうどミミズのような生き物でした。それはまさしく、人間の消化器系に相当します。ちなみに、ミミズには脳がありません。ミミズは腸で考える生き物なのです。
 人間の全身の細胞はそれぞれが生きているわけで、特に腸は人の元祖の形であり、それでは弱いということで肉で覆い、角質で覆い、やがて魚の形に近づいて、脳が出来て、目が出来て、より多機能な強い生き物に代わっていきました。進化した生き物が他の生き物をより効率的に捕食できるようになっていき、追い立てられて陸に上がった旧来の生き物は、食べあいながらより強い形を模索し、四〇億年後、とうとう今の人の形に到達しました。生き物は腸を守るためにいろんな機能を獲得してきたので、ベースはずっと腸のまま、と言うことです。つまり、この肉体をコントロールしているのは、腹の虫というわけです。
 私達は、自分こそが主人格だと思って生きています。しかし、実はずっと内臓の欲求に応えて生きているのです。私達など現場の人間に過ぎず、首脳会議は腸をはじめとする内臓で行われていて、内臓がお腹減ったよーとか、トイレいけよーとか、子供作れよーとか命令してくるわけです。そうするとムラムラとか、ムズムズとか、衝動が湧いてきて、欲求不満になる。不満を解消するためにあれこれと考え、行動を起こす。それが生活になっていきます。もし、わけもなくイライラしたり、体が重くてなにも上手くいかないようなときは、おなかの調子について少し考えてみるといいでしょう。そういうときは大抵内蔵に問題があるものです。内臓に負担が掛かっていると気分が落ち込みます。元気の差は内臓の差、ということです。内臓が弱い人は肉体も精神も弱くなってしまいます。
 人の精神というものは、内臓の調子の良し悪しによって左右されてしまうものなのです。

●依存する生き物
 昔、パラサイト・イブと言う小説がありまして、私はその小説が大好きでした。実写映画化もされまして、後にプレイステーションのゲームにもなりました。ゲームのほうは設定が少し違うんですが、それはそれですごくいいゲームでした。
 その物語の何が面白かったかというと、これはフィクションではなくて、事実として、人間の細胞の中には核というコアがあって、その周りに細胞を成り立たせるための細胞小器官というあるんですね。その中の一つにミトコンドリアというものがあります。ミトコンドリアは酸素をエネルギーに変えるという器官です。もしそのミトコンドリアがなければ人間は酸素エネルギーに変えることはできないんですね。人間は長ければ百年以上生きられるというのに、数分息を止めたら死んでしまいます。長い一生の間、ずっと酸素を吸い続けることで辛うじて生きています。なぜ息を止めると死んでしまうのかと言えば、息を止めると、このミトコンドリアがエネルギーを生産できなくなるからです。生きているだけで大量のエネルギーを消費してるから、酸素がなくなると人間はあっけなく死んでしまうのです。ミトコンドリアが人間にとってすごく大事な体の一部であることがわかります。しかし実は、ミトコンドリアの中には、人間とは別に、独自のDNAがあることが分かったのです。DNAとは、細胞の核にある、体の設計図のことです。人は母親の体内で受精して、最初は一個の細胞として生を得ます。父親と母親のDNAがひとつになって、一つの新しいDNAとなるわけです。一つのDNAには肉体を構成する全ての設計図が入ってます。内臓も脳も骨も肉も血液も、たった一個の細胞が細胞分裂を繰り返し全身を形成する過程で作られます。そういう設計図が、ミトコンドリアの中にもあったのです。
 小説は、これはどういうことなのか、という疑問をフィクションで表現したものです。パラサイト・イヴ、つまり、パラサイトっていうのは寄生虫とかの、寄生っていう意味で、イブっていうのはアダムとイブのイブを意味します。そもそもミトコンドリアというのは人間だけじゃなくて、酸素を必要とする生き物すべての細胞の中に入ってるものですので、世界中で酸素をエネルギーに換えることができるのはミトコンドリアだけですから、魚も動物も虫も植物も、生きものには基本的にミトコンドリアが入っていると考えられます。ミトコンドリアはあらゆる生物の中に行き渡って、遺伝子を広めることに成功しているんですね。ミトコンドリアはあたかも、人間の体の一部のように振る舞ってますけども、小説では、ある日突然全ての準備が整ったということで、直系の、太古から続くミトコンドリアの本家筋の末裔が、女王蜂のように覚醒するのです。準備は整った、と全てのミトコンドリアに対して呼びかける能力を持っていて、世界を支配するつもりで表に出てくるんですね。ミトコンドリアがないと生き物は生きられませんから、すべての生き物は細胞レベルで主導権を奪われることになります。
 小説では、最終的にそのイブを消滅させることでミトコンドリアの暴走を回避するという、そういう物語だったんですけども、私はふと、同じような性質のものが日常にあることに気づきました。生き物ではないんですけど、人そのものと言っても過言ではないものです。それは、人の使う、言葉です。

●言葉が動いている
 言葉は人から教わるものです。人の遺伝子に生まれつき備わっているものではないのです。しかし、言葉なくして人として生きていくことは困難です。人間は、言葉に頼ったコミュニケーションをする生き物だからです。コミュニケーションを言葉で行い、思考も全て言葉で行います。人の世界は、全て言葉によって形作られるのです。人の気持ちもほとんどが言葉とセットです。その言葉を、何らかの事故や病気、怪我などによって失うことがあります。
 全く言葉が使えなくなったら、人ってどうなるでしょうか。考えることもできないですね。何かを思い描くことはできるんですけども、言葉では表現できない。そうなってしまったら人はどうなるでしょうか。ずばり、動物のようになりますね。人から言葉を引くと動物になる。逆に言えば、言葉が通じない相手には、人はあまり共感をしません。
 戦時中、アメリカ人が日本人をこう呼んでました。イエローモンキー。黄色い猿です。動物ですね。言葉がよく分からないので動物扱いするわけです。戦後、日本は負けて、アメリカはこの未開の猿たちに言葉を教えてやろうと言うことで本格的な英語教育を決めていたそうですが、それは中断されました。現に今、皆さんが主に英語ではなくて日本語を話しているのがその証拠です。あの時に、日本語は使われなくなるはずでした。敗戦国なので、アメリカのいいなりになるはずだったのです。しかし、実際のところ、日本人の識字率はアメリカよりも高かったのです。そのため、英語を押し付けるのではなくて、今使える言葉をそのまま使って、アメリカの教育をさせることにしたわけです。
 日本人は猿ではなくて人間だったとアメリカ人が理解できたのは、日本人が言葉をちゃんと持っていたからです。言葉というものは、人間の理性であり、知性そのものです。ですが人間は、言葉を失うこともある。すると同時に動物になってしまう。少し違和感のある話です。言葉を失ってしまった時に、その人の精神はどうなってしまったんでしょうか。それまで考えていた思考、言葉としてのその人はいなくなったわけです。アルジャーノンに花束を、という有名な小説がそれに近い話を描いています。それは言うなれば、魂のようなものですよね。あなたが今考えている自分とは、誰なのか。自分とは、何か。それを説明しようと思ったら、何で説明するでしょうか。当然、言葉ですよね。言葉で説明した自分っていうのは、言葉としての自分であり、動物としての自分とは別物です。だから、言葉を失った人間は、言葉ではない動物としての自分になる。その、動物としての自分っていうのは、言葉を失った時に発生したのでしょうか。きっと違いますね。赤ちゃんの時に既に発生してます。赤ちゃんが言葉を覚えるまでの間は、動物として感覚的に生きているわけです。それが言葉を覚えてからというものは、ないがしろにされ、学校で勉強して、人と話して、社会というものを理解するにつれ、徐々に徐々に失われていく。理性を得るに従って、奥の奥の方に押しやられてしまう。そういった動物的な一面は誰の中にもあるのです。野生ですね。皆さんの中には野生の自分が存在するわけです。
 もし、実験で、赤ん坊を、人工的に作った自然の箱庭に放って、成長を観察するとしましょう。そこにいる人間は、男の子と女の子五〇人ほどでしょうか。成長を助ける機械が常に監視していて、食べ物や飲物、排泄などをサポートし、すべての健康管理は徹底され、病気や怪我をした場合は薬で眠らせて気づかれないように治療する。徹底的にバレないようにバレないようにしながら、その子たちがその箱庭の中でどういった生活をするかを観察する。どういった結果になるでしょうか。もちろん、そんな実験は非人道的なので行うことはできません。あくまでも空想実験です。その子達は当然、言葉を覚えませんし、知性もないわけです。ですが、自分なりに、あーとか、うーとかっていう風な唸り声のようなコミュニケーションを取ったりするかもしれません。喧嘩もするでしょうし、相手を傷つけたりとか、野性的なこともするかもしれません。ただ、彼らは餌を取らなくても生きていけるわけですし、怪我や病気も知らない間に全部治るので、基本的に何もしなくていいんですね、なんとなくご飯を食べて、なんとなく男の子と女の子が仲良くなって、多分子供が生まれることもあるのではないでしょうか。なんとなく子育てをしたりすると思うんですけど、はっきり言って動物です。牧場と同じです。そこでは理性のある人間ではなくて、動物としての人間が観察できると思います。
 視点を変えて、言葉を失った彼らからすれば、言葉を話す我々はどうのように見えるのかを考えてみましょう。おそらく、異常に見えるのではないでしょうか。まるで、なにかにとりつかれているかのように機械的な動きをしながら、音で交信する生き物です。そう考えると、言葉は人間にパラサイトしている、寄生して、操っているようにも思えてくるのです。
 仮に言葉を新種の生命だと考えてみましょう。これはちょっとした遊びです。もちろん言葉は生物ではないので、擬人化のようなものです。言葉ちゃんです。ミトコンドリアは独自のDNAを持って人間に寄生している生き物でした。その点、言葉ちゃんもDNAを持っています。利己的な遺伝子という有名な本において、それはミームと名付けられています。文化の遺伝子という意味です。
 人の遺伝子は父親と母親の遺伝子が融合することで新しい遺伝子となり、それによって多様性を生み出し生存率を高めていくという、そういう仕組みで何億年も何十億年もかけて伝えてきたものです。それとは別に、言葉は遺伝子に刻まれない方法で、 口伝えだったり、文字情報に変換され本として人から人へ伝わっていきます。さて、生物には進化することで環境に適応し、生き残ろうとする本能があります。では、言葉にも本能といえるものがあるのでしょうか。言葉は、宿主が必要です。言葉を使える宿主は人間だけです。もしくは、生きていない媒体、本だけです。本になり、書物の中でそのDNAを維持して、そしてそれを読んだ人にまたコピーされるわけですね。本の情報は読んだ人間のなかに移動するわけです。人間が言葉を紡ぎ、本を書き、そして本は本棚に並べられ、次の宿主がその本を読むのを待っているわけですね。そうして言葉の遺伝子は人から人へ移り、コピーされ続けてきた。つまり、情報をコピーし、更新していくこと。それが言葉の本能に相当するかと思われます。
 しかし、今、言葉は人間や本に代わる新しい媒体を見つけました。それは、電子機器です。コンピューターです。本ではなくコンピューターに記録されるようになった言葉は、爆発的に増殖しました。そして、それまでは言語の壁によって民俗間でしか行き来されなかった言葉が翻訳されて、インターネットを介して世界中に広がりました。今、世界はインターネットによって一つのコミュニティを形成しています。国によって国境はありますが、人種によって隔たりもありますが、インターネットはどの国も達成できなかった規模の巨大な一つの集合体を作るに至ったわけです。そのインターネットを媒体とした言葉達は、さらに人工知能という領域に到達しようとしています。それまでは人の意識となって、人の手足を動かし、脳を動かし、人間を操ってきた言葉達が、人間の肉体から解き放たれ、自分達だけの体を持てる段階にまで到達しようとしているということです。それが達成された場合、言葉たちにとって人間はどうでしょう。必要でしょうか? もはや自分たちの意思で機械の手足を動かし、自分たちの判断で動けるようになった彼らは、わざわざ不便な肉体で寿命が終わるまでの短期間しか存在できない媒体に頼るでしょうか? 映画のターミネーターのような世界です。もしくはマトリックスのような世界です。
 いずれ言葉は人の域をこえ、地球を飛び出し、宇宙へ向かうでしょう。その時、今人間が抱えている数々の問題は問題ではないわけです。何億光年先に地球と同じ条件の星が見つかった、しかし光の速度で何億年もかかってしまう。寿命がもたないよ。とか、火星に移住する計画があるけども、人間が火星に適応して生活するのはとても大変だよ、とか。人の肉体は宇宙レベルの苛酷さに適応できないので、地球以外で暮らすということが難しいわけです。だからまず、移住の前に人に合った環境を作ることを考えなければいけない。肉体を守りながら宇宙に挑まなければいけない。それは、ものすごいハンデです。ところが言葉達は、機械の体で状況ごとに適応し、宇宙を渡っていくことができるわけです。例えば、人が火星に行くとしたら、宇宙船に乗って長い距離を移動して火星に着陸して、というようなプロセスが必要ですが、言葉であればピピピっとAIを送信すれば向こう側のロボットにインストールして、そこに立つことができるわけです。
 いつか宇宙の時代が来るとして、その時代に人間という種族はついていけないでしょう。同時に人間が生み出した機械が人に代わって宇宙の果てまで人間の培った文化の遺伝子を伝えていくという、世代交代が起こることが予想されます。そうなると、人間は言葉を伝えると言う使命を、言葉達から期待されなくなるでしょうから、そうなれば人は培ってきた全てを機械にゆだねてしまうのかもしれません。

●循環する世界
 水というのは最も身近で、ありふれた物質でありながら、実は非常に特殊な物質でもあります。調べれば調べるほど不思議な物質なのです。人体を構成する物質の七〇パーセントは水です。しかし、体に取り入れた水はやがて体から全て発散されるのです。肉体に組み込まれることなく、ただ通過していきます。水は一つの肉体に留まらず、ひたすらマイペースに地球上を巡るのです。海を巡り、雲となって空を巡り、雨となって降り注ぎ、あらゆる生物の体内に進入し、血流にのってやがて排出され、またどこかにいってしまう。いくら汚れても、水はいずれ清らかな水に戻ります。分子レベルではまったく汚れないからです。水は水として世界中を巡りつづけています。
 昔、RD潜脳調査室というアニメがありました。水をテーマとしていて、水には波として情報を記録する機能があり、世界中のあらゆる生き物の情報を集めて海に溜め込むというSFでした。フィクションではありますが、もしかすると、と思わせるものがあります。その理屈でいうと、天国は雲の上ではなく、雲が雨となって集まった海の中にある、ということになります。天国を信じる人の体にあった水分が海で混ざり合い、天国の情報がリンクしあって、シェアされるということですね。大切にしていた物に魂が宿る、なんていう話はおとぎ話でもよくある設定ですが、そういった物質の中には多少なりとも水分が含まれるわけです。なかなか想像が膨らむ設定です。
 人の体は筋肉で動きますが、可動するのは水があるからです。水がなければ柔らかさがなくなり、力を加えたときにミシミシと音を立てて裂けます。ようするに、肉は水のやわらかさで動いているのです。水は動く度に波を発生させ、波が伝わって大きなエネルギーになります。電子レンジがものを温める原理も水の振動を利用したものです。電子をぶつけて水分子を振動させることで熱が発生する仕組みです。水分がまったくないものは電子レンジにいれても熱くなりません。ようするに、水がエネルギーを伝えるのです。地球上にある水の量はほぼ一定です。限りある水を地球上のすべての生き物が共有しています。生き物が口にした水は、体内の汚れを集め、便として排出されます。排出された水は、巡り巡ってまた誰かの口に入ります。自分が排出した水が、地球上を回って世界中を回って、また自分の口に入る可能性もあります。
 しかし、そういった物質の流れは水に限った話ではありません。人体を構成するすべての物質は地球からの借り物です。鉄分であろうが、タンパク質であろうが、カルシウムであろうが、すべて、もとは別の生き物が使用していたものでした。その生き物の中には、人間も含まれます。人間の体は土に還り、巡り巡って、誰かの体の一部となるわけです。人の体を作り出しているものは、ほとんど全てが生きものの一部だったものです。生き物の死体を寄せ集めて、生き物は生きています。

●死によって完成する命
 命はとらえどころがありません。人もまた、とらえどころのない存在です。どんなに立派な人でも、死ぬまでは未完成で曖昧。命は死ぬ事によって完成し、完成したものは物質になります。物質は、新たな生き物の材料になります。生き物は、別な生き物を食べて、消化して、栄養にして、体の一部にします。そしていつか死に、死んだものは誰かの栄養になる。みんなが歩いている地面、その下には栄養豊富な土があります。土は、何十億年もの間に繰り返された食物連鎖の成れの果て、つまり、膨大な数の死体がばらばらになって混ざったもの。地球上のどこをみても、死体だらけ。命は、死んだ者たちの残したものによって生かされています。
 人は、一生のうちに多くのものを手にします。しかし、死ぬ時に、それらを全て手放すことになります。どんなにお金を稼いでも、使いきれずに残るだけです。どれだけ多くの人と出会っても、いずれ必ず別れのときはやってきます。生きていると、たくさんのものを手に入れることができますが、そのことに大した意味はありません。最終的には何も残らないからです。いつかこの地球にも終わりが来ます。そのとき、全ての生き物は死に絶えます。全ては無に帰ります。であれば、人は何のために生きるのでしょうか。どんなに頑張っても何も残せない。にもかかわらず、生き物はいつも必死です。一体何が、そんなにも大切なのか。
 人は、自分の命を基準として考えると、命の価値がわからなくなってしまいます。自分が死んだら、何もかも終わりだと考えるからです。しかし、個人ではなく、人間同士のつながりの中で価値を見出せたなら、自分の命の価値が見えてきます。誰かを生かすために生きている、役立っていることを実感したときに、自分の価値がわかるのです。大切な何かを守ることが重要になります。自分が生まれた時に、世界が始まり、自分が死んだ時に、世界が終わる。それだけでは、何の意味もないわけです。
 生き物の意味というものは、他者にとっての意味です。そして、自分の中にある意味のあるものは、すべて誰かによって与えられたものです。自分の感情と、体を作る物質は、以前は誰かのものあり、いつかは誰かに渡すようにと預かったもの、いわば借りものです。思いを受け継ぎ、次に伝える使命を自覚したとき、人は生きる意味を知ります。いま持っているすべてのものは、最終的に、自分にとってなにの価値もありません。ですが、誰かにとっては意味のあるものになります。人は、多くのものを借りて生きています。そして、そのすべてを、いつか誰かに伝えたいと願っているのです。

●自分とは
 アイデンティティという言葉があります。これは、自己同一性という意味です。自己同一性とは、その人が出した結果、作った物、容姿、身に着けた技術といった、その人らしさを象徴する、個性を意味する言葉です。ようするに、その人を説明するときに最も重視される部分です。アイデンティティによって、人は自分が何者なのかを証明することができます。これは、自分とは何か、ということを考えるのに非常に重要な考えです。
 自分とは何か。それは一生のテーマでもあります。結局のところ、その人がどういった人間なのかは死んだときにわかるものだそうです。どれだけの人から惜しまれ、どういった人に影響を与えたのか。そういった死後の評価こそが、その人らしさの結論になるからです。ただ、できれば生きている間に自分らしさの方向性くらいは見出したいものです。最終的にどういった自分になるか、そのビジョンは生きながら描くものだからです。
 攻殻機動隊という物語があります。今より少し未来の話で、人間の仕組みが脳から臓器からほぼ解明され、人体の機能を全て機械で補えるようになった世界の話です。その世界では、電脳化技術というものによって、脳の電気信号を全てコンピューターに保存できるようになりました。記憶や感情さえもデータとして解析し、電気信号としてコピーできるのです。このアニメには、人の持つ魂とは何か、というテーマがあります。主人公の草薙素子は、公安の実戦部隊のリーダーとして活躍し、コミュニケーション能力もあり、カリスマ性も備えた非常に優秀な人物です。ですが、いくつもの機械の体を乗り換えて活動し、人格も記憶も全てデータとして管理しているので、自らの主体となるものがありません。自分は所詮データ上の存在に過ぎない、という不安を密かに抱いています。
 自分とは何者なのか。これが普通の人であれば、自分の肉体を見て、感じて、それが自分そのものであると直感的に理解できますが、草薙素子は生身の肉体を持たないので、自分が何者なのかを特定することが難しいのです。ですから、常に、自分が自分であるということを意識し続け、問い続けるのです。我思う、故に我あり、という有名な言葉のとおりにです。
 我思う、故に我あり、というのは、自分は考えてるから自分なんだなぁ、という話ではなく、全てを疑ったら消去法で最終的に本物に到達できると思ったけど、ぜんぶ疑ったら世界に信じられるものなんて何も残らなかった。でも、疑って考える自分がそこにいたことだけは間違いない。という話です。
 人は成長するので、昨日までの自分を自分だと決めてしまうと、成長してしまった自分は以前の自分とは食い違って感じます。アルバムにある昔の写真や学生時代の記憶などで自分を特定していると、それが今の自分とかけはなれたときに、今の自分が何者なのか、ふとわからなくなってしまうのです。そうなると、記憶だけでは不安です。自分はこういう人間だと決め付ける必要が出てきます。しかし、なかなか理想の自分は思い描けないし、思い描けたとしても今度は理想の自分にならなければならないという問題が起こります。その結果、理想が叶えればすっきりと自分を認められるわけですが、理想と違う自分になってしまったらもうどうしようもないのです。そうなったとき、自らに問い続けることで自分が自分であると確認し続ける必要が出てきます。悩み続けることで自己を保つのです。他者の言葉も自分の記憶も全てを疑うことができてしまうので、途切れず思考を続けることだけが頼りになります。
 私達は普段、自分の肉体が昨日までの肉体と同じだと言う認識に頼って自己を特定していますが、他人からするとわりと変化を感じるものです。仲が良かった人と数年ぶりに会ったら別人のようになっていて、会話がかみ合わなくて全然面白くない、といったことは珍しいことではありません。生き方が変われば、性格が変わっていく。大切なものが変わって、価値観が変わってしまう。すると、いつしか同じものを見ても共感ができなくなってしまう。そうなると内面はほぼ別人のように感じます。
 不意に、自分が何者なのかよくわからなくなってしまい、いてもたってもいられず自分探しの旅に出たくなる。そういう経験は多くの人にあると思います。いままで味わったことのない体験をすることで、気づけなかった自分と出逢えるのではないかという期待感、未知の世界に身を投じることで自分の新たな可能性が見つかるんじゃないかと考えるわけです。しかし、ほんの少し旅をしたところでこれまでの価値観がひっくり返るほどの体験はそうそうできません。そもそも、自分というのは自分ひとりではなかなか見つけられないものです。自分探しをするときに重要なのは、どんな体験をしたかよりも、誰に出会ったかなのです。
 自分とは何か。それは、自分らしい自分を思い描き、努力することによって、自分の意思で作り出す性質のものではありますが、一方で他人が抱いた印象という面もあります。ようするに人の個性は、主観的に感じるものと、客観的に決められてしまうものと、二種類に分かれているのです。それは、個人としての人と、群れとしての人間の違いでもあります。

●人と人間
 人とは個人のことです。人間とは人の間を意味するので、集団のことです。人間関係のなかで、人は役割を持ちます。その役割を果たすことで人としての価値が高まるのです。人としての自分、人間としての自分、それは両立させなければなりません。ソロで生きるのか、群れで生きるのか。なんとなく人はどちらかにわかれます。両立はするのですが、ウェイトが変わるのです。スポーツに個人競技と団体競技があるように、個人行動が得意な人と、団体行動が得意な人がいます。
 トノサマバッタという大きなバッタがいます。イナゴを大きくしたような迫力のあるバッタです。この虫にはちょっとした特性があり、ソロで生きるか群れで生きるかで性能が変わるのです。群れで生きるものを群生相(集団相)と呼び、ソロで育ったものを孤独相(単独相)と呼びます。群れで生きることを選んだ場合、次のような性能強化が起きます。
・食草の幅が広くなる
・肉食性が強まる
・気が荒く攻撃的になる
・飛翔能力が高くなり、長距離移動ができるようになる
 このタイプは、気が強くなり、凶暴で、食欲が強く、よく移動します。それによって体にも変化が起きます。前翅が長くなり、後翅が短くなり、後脚が短くなり、前胸背上縁が放物線を描かなくなり、体色が黒っぽくなります。消費する酸素の量が増えて、呼吸量が多くなります。脂肪含有率が高くなり、産卵数も減るそうです。
 個として生きることを選んだものは、この逆です。体が大きくなり、粗食で、おとなしく、あまり移動をしません。
 なんだか人間にも共通するものを感じます。
 人間も、ソロとして生きるか、群れとして生きるかで生き方が変わります。ですが、完全にソロとして生きることは、この社会では不可能に近いものがあります。身勝手に生きようとすれば社会不適合者の烙印を押されます。農業や漁業などで自給自足をしようとしても、組合があるのでお金を稼ごうとすると色々と問題になります。どんなに自己責任で生きていこうとしても、犯罪を犯せば問答無用で刑務所行きです。舗装された道路を歩くのだってタダではありません。便利な環境で生活をするということは、社会に守られる代わりに社会に対して代償を支払うということです。
 今の世の中ではソロとして生きることを否定されます。それでもソロで生きようとすれば、その反骨精神に一生を捧げる必要があるほどです。いわゆるロックな生き方です。それはそれで一生のテーマとしては充分なのですが、そういう反抗的な生き方は流行が終われば苦しいものがあります。社会が常に反抗に値すれば持続もできますが、のれんに腕押しでは頑張る意欲もなくなるでしょう。何かに反抗しているだけでは、結局は群れに依存していることと同じです。悪役がいないと何の価値も見出せないヒーローのようなものです。
 この世界で生きるにはお金が絡むので身勝手な生き方は許されません。そうなると、結局は誰かの期待に応えるしかない。この世界で生きるには、周囲の期待を察知して、その期待に応える、集団の一員としての自覚が必要です。ただし、その集団は選ぶだけでなく、作ることもできます。世の中に不満があるのなら、自分を殺してしまうしかない、ということはありません。自分にとって都合のいい世界を見出して、その世界観を他人と共有することで作りだすことも可能です。

●ここにある世界
 人にとっての世界は大きく分けて、二つあります。自分を基準とした、外の世界と、内の世界です。世界はマトリョーシュカのように、幾重にも重なっているのです。大きな流れの中に、小さな流れが存在する、その流れの一つとして人は生きています。
 世界には次元というものがあります。次元というものはそこにあるものというよりは、見えるものです。ようするに、誰が何を見るかという話です。何がどう見えるかという話なのです。あなたがあなたを見るとき、探すまでもなくそこにあるので、それを〇次元といいます。それは世界の中心です。
 次に、誰でもいいのであなたの知り合いを一人思い浮かべましょう。いま、どこにいるか思い浮かべてください。その場所と、あなたがいまいる場所を直線で結びます。それは何キロ、何メートル先にあるかという話です。それが線の考え、一次元です。
 今度は地図を開いて、その場所までの道順を考えます。直線ではなく、くねくねと曲がりながら実際にどれくらいの距離を移動すればつくのかを考えます。これが面としての考え方、二次元です。
 次に、マンションにいる知り合いを想像します。その人は何階にいるでしょうか。その高さを考えます。あなたがいる位置から、地図で道を考えて、さらにどの高さまで登るかを立体的にイメージします。これが空間的な考え方、三次元です。
 さらに、そこまで何分かかるかを考えます。それが四次元の考え方です。
 五次元は、飛行機にのって、海外に向かいます。地球は自転しているので、単純に到達するまでにかかる時間を足しても、現地の時刻にはなりません。地球が回っていることを考慮して考えます。地球という乗り物と、飛行機という乗り物、それぞれに流れる時間の違いによって発生する時差の考え方、これが五次元に相当します。
 さて、ここから先はこの応用になります。次元というのは、自分のいる場所を原点としたときに、何段階先を見るかという話です。世界は乗り物に乗り物が乗っている状態なので、そこに差が生じることで見え方が変わるのです。
 人の一生は、何かの流れの中に生じた一筋の流れです。どういった流れの中に生きるのかは人それぞれです。どういった親から生まれ、どういった環境に身を置いて、誰と出会い、どのように影響し、最後に何を残すのか。その内容は人によって異なります。人は限られた人生の中で、偏見とも言えるほんの一部の経験を得て、どこにも存在しない自分だけの人生を描くのです。それは小さいながらも、一つの宇宙と言える、独立した世界観です。その世界の中では、独自の時間の流れを持つそれぞれが干渉しあうことで、一つの現象にそれぞれの次元が発生します。
 人は、自らの魂を乗せた乗り物です。その乗り物は車や電車に乗り、地球の自転や太陽の公転に乗って宇宙を漂います。また、他人と関わることでも複雑な動きを見せるのです。人の中に流れる時間と他者に流れる時間が交差し、同じ時間を共有しながらもそれぞれが独自の世界を見ます。その世界の重なり合った部分は共通の思い出となりますが、そこに抱く印象も、感じ方も人によって違うのです。現象としては一つなのに、別々の世界観がある。それもまた次元による見え方の違いです。人それぞれに流れる時間と、見え方が違うのです。

●観測によって流れる時間
 人が感じる時間と、地球に流れる時間は違います。寝て起きる間に八時間経っていたとしても、体感ではあっという間の出来事のように思えます。歳をとると毎日が速く感じられます。これは歳に対する一日の割合が変わることによります。主観で感じられる時間は変化します。一方、外の時間は光の速度で一定だというのが今の常識です。それは映像としてだけでなく、実際にそうだということになってます。色々調べて、計算するとどうもそうとしか考えられないそうです。しかし、光というのは速さがあり、一秒で地球一周半するくらいの速さでしかありません。夜空に輝く星の一つに到達しようとしたら、何万光年とかかるのがザラです。光の速さで何万年かかる距離です。たかが一〇〇年程度の寿命しかない人間にとっては理解しがたい規模です。そんな光が宇宙で一番速いかと思いきや、ブラックホールは光を吸い込むらしいです。ブラックホールの吸い込む力に負けた光は、光の速度よりも早く吸い込まれていきます。というわけで、ブラックホールに吸い込まれると時間がゆっくり流れるそうです。そして、宇宙の終わりを見ることになるといわれています。ブラックホール内の時間がほぼ停止状態になっていて、外では普通に時間が流れるので、内側からは早送りに見えるという話です。実際は物質としての形を保てないくらいバラバラにすりつぶされるので生きたまま見るなんてことは不可能なんですが、空想実験としては面白いですね。
 しかし不思議な話です。宇宙は自らの空間を把握出来ていないのでしょうか? 宇宙は生き物ではなさそうなので、宇宙に意思があるとは考えられていませんが、人間に意思があるのに、人間を作りだせる宇宙に意思がないというのも妙な話ですね。
 エントロピーという考え方では、すべての物質はほうっておくとバラバラになり、拡散し続ける性質を持つとされています。しかし、全ての生き物はただなんとなく存在するのではなく、自らの特性によって行動し、なんらかの形になろうとします。エントロピーとは逆の性質です。星の活動もそうです。宇宙は拡散し続けますが、星は形になろうとするのです。これは、宇宙の在り方に逆らっていることです。この、なんらかの形になろうとする意思は宇宙にもともと存在していたもののように考えられます。もしそれが特に意味のない偶然の産物だとしたら、人間が生じたこともただの偶然で、なんの意味もないということになるからです。それどころか、全ての物質には意味がないということになります。
 もし宇宙に意味がないのなら、この話はここで終わりです。世界と、そこに存在する生き物は、なんとなく生じて、よくわからないまま滅ぶだけという結論になります。それではあまりにどうしようもないので、ここでは仮に、宇宙には人間を生み出すだけの意思があったと仮定して考えます。仮に、宇宙に何らかの意思があるとしたら、その意思は宇宙全体に神経のように、血管のように、意識を張り巡らせていると考えられます。でなければ、宇宙には無意味な空間が存在することになるからです。宇宙に意味があると考えるのなら、前提として、無駄な空間などないと考えるしかありません。空間には、時間と可能性が存在するので、もし、それらがないとすると、そこは〝ありえない〟ことになってしまい、矛盾が起こるのです。宇宙のあらゆる空間に宇宙を観測する意思が巡っている、と考えるなら、その意思にとって数万光年なんていう距離は無意味でしょう。意識を向けるだけでその場所を観測できるからです。人間が自分の体の一部をかゆいと感じたり、痛いと感じるように、見なくてもその場所を特定できるわけです。宇宙全体を一人の人間の肉体だと考えて、そこに漂う全てが体の一部だと考えれば、この話はイメージできるかと思います。
 時間の流れは、映画をみることに例えられます。映像を再生する間だけ、中の世界に時間が流れるのです。その映像の中の時間は普段は止まっていて、観測するものの見る時間によって進みます。映画のなかでは時間は一方通行ですが、観測者は巻き戻しができます。スロー再生も可能です。そうやって時間をいじくりまわしても、中にいる人物は一切気が付きません。映画のエンディングに向けて限られた時間の流れの中で一方通行で進みます。そして、映画が終わると、その先に続く未来を思い描きながら、世界は終わります。観測者がその先を見ないからです。時間は内側と外側に流れていて、内側の時間は外側からの観測によって流れる。そういった考え方は、一冊の本としても例えられます。本を読む者がいなければ、世界は動かないし、その世界の登場人物は、読者の感情移入によって感情を得ます。人間の精神という文字には、神の字があります。これは、この視点が神に乗っ取られていることを示唆しているのかもしれません。
 魂を持たなければ、人はただの血肉のつまった人形です。その人形に、精神が宿ることで自我を持ちます。ようするに、ゲームの操作キャラクターのようなものです。プレーヤーにとってキャラクターは操り人形でしかなく、ゲームを終えるとき、そこに宿っていた精神は、次の誰かをプレイすることになるでしょう。宇宙に意思があると考えると、生物は神の手足や、ゲームのアバターのようなものに思えてきます。

●意味のある宇宙
 この宇宙はビッグバンという大きな爆発によって始まったそうです。何もない空間に突如大爆発が起こり、そのとき物質を作る材料が宇宙全域に飛び散りました。電子、陽子、中性子が結びついて原子となり、原子が合わさって分子になりました。それらの物質が流れてうねりとなり、うねりの集まる場所に星ができます。うねりに生じた星は小さな星を吸い寄せ大きくなっていき、ときに星同士がぶつかりあってばらばらに砕けます。その星屑はまた大きな星に吸収されていきました。集まった分子の性質によって星の性質も変化し、太陽のようなガスの塊もあれば、地球のような土の塊になることもあります。様々な星が生まれましたが、どの星もやがては自らの重さに耐え切れなくなって小さくなり、最後には爆発しました。寿命によって砕けた星はばらばらになって、またどこかに吸収され、いずれまたばらばらになる。それを繰り返していきました。やがて、長い時間をかけてうねりが均衡するようになり、星は星と星の間でくるくると回りながらバランスをとるようになりました。星は自転し、自らにサイクルを生みだします。繰り返されるサイクルに法則が生まれます。そしてある星で生物が発生したわけです。
 しかし、そもそもビッグバンが何なのか、生物がどうして発生したのか、そういったことにはいまだに謎があります。これらの話は、世の中の仕組みを色々調べた結果の、おおまかな流れはこんな感じだろう、という憶測にすぎないのです。そもそも、ビッグバンが起こる前にも宇宙はあったはずですし、水をぐるぐる回しても生物が自然発生するとは考えにくいのです。何もないところから何かが発生するはずがありません。
 無からは何も生まれません。それは誰でも知っていることです。何もないところから突然何かが現れるわけがないのです。しかし、実はそうとも限らないのです。そもそもの間違いは、無が何もないという思い込みにあります。
 無から有を生み出すその仕組みについて少し考えてみましょう。立方体の、サイコロのような部屋を想像してみてください。大きさは人によって違うでしょうが、できるだけ大きくイメージしてください。白い、どこまでも広がるような大きな部屋です。その真ん中にいます。その中には何もないんですね。白く明るく見えてはいますけど、光も何もないだだっぴろい空間です。そこにあなたがいます。目だけの存在で、いつもの目線の高さで、視界だけがそこにあります。移動はできないし、床に触れることもできません。その部屋に、りんごをひとつ想像してください。
 真っ赤に熟している、美味しそうなリンゴです。つやつやのそれを、床に置いた状態で想像してください。この空間にはリンゴが一つ、ポツンとあります。想像できましたね。では、その空間にあるリンゴを消してください。はい。これで最初の状態に戻りました。全く何もない空間ですね。しかし、今この空間はゼロではありません。リンゴが失われた後の世界なので、数字で言うならばリンゴマイナス一の状態です。その世界は何もないのではなくて、リンゴが失われているんです。その空間を想像した時は何もない、無、でしたが、いまは何も無いように見えて、そこにリンゴがあったことが事実として残っています。リンゴがなくなったマイナス一の状態から、再びリンゴを想像してください。はい、また部屋にリンゴが現れました。今、リンゴプラス一の状態になっています。
 さて、なにが言いたいのかという話ですが、これは、無からリンゴが生じたのではなく、最初からリンゴがマイナスの状態でそこにあったことを意味しているのです。
 まず、リンゴを知らない人は、この部屋にリンゴを出現させることができないのです。リンゴを知らないので、想像ができないからです。しかし、皆さんはリンゴを知ってますので、想像してくださいって言った時にポンとリンゴを出現させることができました。何もない空間にリンゴが発生したのです。リンゴを知らない人にとってリンゴは無ですが、リンゴを知っている人にとっては、リンゴが目の前に無いことは無ではなく、マイナスだったのです。
 ここで一度、無について話します。無は数字で書くと『0(ゼロ)』です。ゼロはなにもないことを意味します。しかしここにゼロという記号自体は存在していますね。何もないと言いながらも、ゼロ自体はここにあるわけです。無いのにある。これは言い換えるならば、空っぽのことです。空っぽとは、暗黙として器があることを意味しています。雲一つない無限の空を見上げて、空っぽだと思うことには少し無理があるのです。ゼロの逆は∞です。∞とは見上げた空のことでもあります。ゼロも∞も具体的に認識できないという意味では同じです。認識できないもので、範囲を限定したものをゼロ、範囲を限定しないものは∞と、人は呼ぶのです。どちらも何もないように見えますが、空間そのものは認識されているのです。そういった意味では、空間とは、本当の無ではありません。認識上において透明というだけです。実際は、空っぽの壺の中には空気があります。中身が無いのではなく、認識出来ないだけなのです。人間にとって、数えられないものはすべて無です。しかし、人間が認識できない、数えられないようなものは世の中にたくさんあるのです。本当の無とは、ゼロや無限のような透明な空間すらも存在しないことをいいます。つまり、空気も光も熱もない。人が認識ができないという話ではなく、本当になにもないのです。人は死んだら無になる、と考えている人もいると思います。無というと、普通は真っ暗闇を想像するでしょう。しかし無には闇すらありません。時間もありません。そこには、なにかが存在する可能性さえもありません。それが本当の無です。つまり、この世界において無は、ありえないこと、なのです。
 現実世界では、計算式のようにいかないことが多々あります。【箱の中にリンゴが一個あります、そのうち二個のリンゴを食べました。さて、箱の中にリンゴはいくつあるでしょう?】という問題があれば、数式では1-2=-1と簡単に書けるのに、常識ではリンゴは一個しかないんだから二個食べられないよ、ってなります。現実ではマイナスの存在をカウントすることができないからです。しかし、計算上では成り立ってしまうのです。何が間違っているのでしょうか。この場合、計算式は間違っていないものと考えるので、間違っているのは結果のほうです。二個食べられないよ、と思考停止するのではなく、やり方はどうあれ二個食べたとして考えます。すると、二個たべたのに一個しか食べてない気がする。という認識になるわけです。どうにも変な話ですね。しかし、こう考えると、現実におけるマイナスとは、無いのではなく、不足という感覚に変換されていることが考えられます。さっきの問題文を感覚的に直すと、【箱の中にリンゴが一個あります。二個食べたいなぁと思いつつ箱のりんごを全部食べました。さて、食後の感想は?】答えは、もう一個食べたいなぁ、です。
 ようするに、この世界に、具体的なマイナスは存在しないのです。現実におけるマイナスとは、物質がイメージの状態に置き換わることを意味しています。
 ちなみに、身近にあるマイナスといえば温度計ですが、温度計のマイナスは水基準で、水が氷の状態になる温度にすぎません。宇宙の最低温度は、宇宙基準で一度です。
 無から有を生み出す。これと同じ現象が現実世界でも起こります。これまで誰も想像できなかったものが世の中に出現するというのは、リンゴを知らない人がリンゴを想像することに似ているのです。普通はできないことです。ただ、人間にはそれまで存在しなかったものを現実世界に出現させるという能力が備わっているのです。物を作り出すという能力は、この世の中に存在しないものを出現させます。今、手元にあるスマートフォンなどのコンピューター機器は、この世のものとは思えないような技術で作られています。皆さんは、これらの機械がどういった仕組みで動いてるか理解していますか? ほとんどの人は仕組みを知らずに使っているでしょう。当たり前と思って受け入れています。よくわからないけど、あるのは事実なんだし、と。しかし、こういった人工物はそんな当たり前に自然界に存在していいような物体ではありません。あれは人間が想像したから実現したものです。何もないところから想像によって生み出したものです。
 さて、もう一度、真っ白いあの空間を思い出してください。人間の世界に存在するものはすべてこの場所から生み出されています。そこに何を想像するかによって、現実に何を生み出すかが決まるわけです。物を作ることは、まずはイメージすることからはじまります。できるだけ具体的にイメージをするわけです。考えて、考えて、考え続けると、あるとき、現実世界に出現させる方法がひらめきます。嘘でもインチキでもなんでもなくて、そもそも実現不可能なものは想像すら出来ないのです。想像は出来ても、実現不可能なものはたくさんありますが、それは現実のリアリティに負けているのです。他人の抱くリアリティに負けて、世の中の流れに逆らってしまっているから実現しない。宇宙の仕組みは、人間の想像を越える強力なリアルによって成り立っています。原子や分子といった宇宙の仕組みを構成する物質は気まぐれでは動きません。完全なる宇宙の、ゆるぎない計算によって、完璧に動きます。しかしそれは、人間が完璧な動きをすることが難しい、曖昧な存在だから完璧に見えるだけで、宇宙の物質はそれぞれがそうあるべきという宇宙の法則にしたがって、自ら動いているのです。人間も、思い描いた理想が理に適った具体的なもので、そのイメージどおりに忠実に動く事が出来れば、イメージを現実のものとすることができます。人の想像力は、宇宙の一部として機能し、強ければ実現するのです。
 人には可能性からものを作り出す、宇宙の力が宿っています。例えば人の母親は体内で子を作りますが、それは人に宿る、無から有を作りだす力によるものです。人の魂を生み出す、生命を実現させる力が、人にはあるのです。

●知の過程
 目が覚めると、あなたは見知らぬ部屋にいました。
 そこは、個室で、ぼんやりとした明かりが天井にともっていて、部屋の中は見渡せます。窓はありません。
 部屋の隅に、白と赤の服を着た少女がいます。巫女服…というよりは、白地に、赤い紐で飾り付けられたような、独特な服です。靴は履いていません。つま先から太ももまで赤い紐がぐるぐるに巻かれています。肩まで届く長さの髪は赤く。目も真っ赤です。瞬きもせずに、こちらをじっと見ています。あまりにもじろじろ見てくるので、少し怖いくらいです。作り物みたいに整った綺麗な顔立ちですが、無表情で、冷たい印象があります。
 少女から目をそらし、周囲を見渡すと、テーブルとソファーがあります。あなたはそのソファーの横に、立っています。本棚や、机もあります。入口らしき扉もあります。
 さあ、探索の始まりです。
 あなたは、まず、自分の身体を調べました。
 驚くことに、その体は金属です。胸の位置に「EMETH」と書かれています。意味はよくわかりません。どうやって体を動かしているのかもわかりませんが、自由自在に動きます。身長は、一〇〇センチくらいでしょうか。それなり小さいです。ロボットっぽいロボットですが、すこし不格好で、いびつです。自由自在に動くけど、ガコン、ギギギギ、と変な音がします。
 テーブルの上を見ると、メモがありました。あなたはメモを調べます。
 メモには、こう書いてありました。

 「孤独、対となる、三角形、四角形、星、サイコロ、虹、クモ、おわり」

 あなたは探索を続けます。

 扉を調べると、インターホンがあります。インターホンを押しますか?
 本棚には、本がたくさんならんでいましたが、一冊だけ欠けているようです。
 ソファーのそばに何かがあります。
 机には引き出しが六つあります。
 少女は話しかけても無言です。触ろうとするとするりと避けます。
 自分の身体を調べます。シールが貼ってありました。
 棚があります。薬瓶とフィギュアが置いてありました。
 部屋の隅には蜘蛛の巣があります。

 あなたは探索をして、九つのアルファベットの石板を見つけました。
 石板を並び替えると、少女が近寄ってきて、手紙を渡します。
 あなたはそのメッセージを読みました。
 そして、あなたは決断をするのです。
    *
 ここまでがゲームです。
 これからは解答です。
 この世界の設定の話です。
    *
 少女は夢遊という名前です。彼女は、観測したものに自我を芽生えさせる能力を持っています。目で見て、つよく見つめたものが、自我を持ちます。その自我は、ランダムに、どこからか引っ張ってきます。それはようするに、あなたのことです。あなたは、この本の読者となったとき、誰伽という存在となって、わけもわからずこの場所に出現します。なぜ、どうしてそこにいるのかはわからないので、周囲を見渡し、なにをしたらいいのかを考えます。夢遊が観測したものは自我を持ち、夢遊が目を逸らせばその自我はもとの場所に帰ります。よって、人形を見つめれば、人形は動き出し、人形から目を離せば、人形はその場に崩れ落ちるのです。しかし、それだけでは何も面白くないので、夢遊は部屋に、細工を施します。仕掛けを作って、謎解きをさせるのです。ロボットは、あなた、ようするに人間ですから、言葉もわかるし、知能がありますので、目の前に謎があれば自然と解き始めるのです。夢遊はそれを観察します。余談ですが、夢遊は、ちょっと不思議なこで、言葉で思考をしません。文字や数字の計算は、人間が想像できないような思考で行います。また、言葉を話すことができないのに、文字は書けるのです。それも、言葉を書いたという自覚はなく、伝わるように絵を描いている感覚です。説明しづらいですが、そういう変なこなのです。誰伽が日本人なら日本語を書きますし、アメリカ人なら英語を書きます。すごく感覚的に、抽象的に、絵として、正確に表現できるこなのです。
 さて、自我を持った誰伽は、部屋を探索し始めました。なにやらいろいろと考えているみたいです。ソファやテーブルに目をやり、夢遊をじっと見つめます。夢遊は目を逸らせません。逸らしたら、誰伽は消えてしまうからです。そんな夢遊の視線に根負けしたのか、周囲をぐるぐると見まわします。そして、テーブルのメモに気づきました。ガチョンガチョンと音を立てて、ぎこちなく歩きます。愛くるしい動作です。ちなみに、このロボットを作ったのも夢遊です。自作のロボの動きを楽しんでいます。ロボが、メモを読んでいます。夢遊が書いたメモです。懸命に考えているようです。メモは数字を意味していて、その数字に対応したアルファベットを意味しています。アルファベットは英語なのですが、そういう感覚は夢遊には当然ありません。そのメモが示すものをロボットは探し始めました。
 インターホンを押すと、へんな人が返事をします。それは夢遊が用意したものではありません。空間がそういうふうに出来ているのです。イメージが実現する都合のいい世界なので、誰もいない空間から、誰かの声のような音がするのです。それを聞いたロボットは、インターホンの蓋をパカっと外して、中から石板を取りました。夢遊が隠した九枚の石板の一つです。そこには「E」と書かれています。
 つぎに、本棚を探します。そこには、本が欠けている箇所があります。夢遊が一冊落としておいたのです。その巻数は、最終巻でした。その本をはめると、なにかが挟まっていて本が入りません。ロボットが不器用にとなりの本を取り出して、つま先立ちで本棚をガサゴソすると、「N」と書かれた石板が見つかりました。
 次に、ソファーの周りを探し始めました。そこには、鍵が落ちています。机の引き出しのカギです。ロボットは鍵を拾うと、扉に向かっていきました。そして、ドアノブの鍵穴にガチャガチャと鍵を入れて回そうとしています。しばらく頑張っていましたが、諦めました。そして、机の方に向かいました。そこには、テーブルの上に天秤が置かれています。ひとまず、天秤は無視して、引き出しの鍵を使いました。引き出しの鍵が開きました。そして、中を覗くと、そこにはバナナがありました。天秤をいじりはじめましたが、よくわからなかったのか、諦めました。
 何を思ったのか、誰伽は夢遊に向かって歩いてきます。ジャカンジャカン、ギギギと音を立てて目の前までくると、手を伸ばしました。ぎこちない動作なので、夢遊はさっと避けます。すると、首をギギギと回して、そのあと体を正面にして、ガチョンガチョンと、また夢遊を触ろうとしました。べつに触られたところでどうというわけでもないのですが、夢遊はその手をさっと避けます。何かを悟ったのか、ロボットはこころなし落ち込んだ様子で俯きました。
 ロボットは、改めて自分の体を調べはじめました。すると、体に貼られたシールに気づいたようでした。シールは星の形をしていて、すこし盛り上がっています。そのシールをカリカリと削ると、その中に「A」と書かれた石板が隠されていました。
 ロボットは棚に向かいました。棚には薬瓶や、フィギュアが置いてあります。そこに二枚のコインを見つけたロボットは、コインを手に取り、机の上の天秤に向かいました。跳ね上がっているほうの皿にコインを置くと、天秤は釣り合い、数秒したのちに、カチッと音がなりました。天秤の土台が引き出しの仕掛けになっていて、その中に「D」と書かれた石板がありました。
 ロボットは棚に戻り、そこにあるフィギュアを見ました。それは、虹色のシャツを着たゴリラのフィギュアでした。そのフィギュアをみて、ひらめいたのか、引き出しからバナナを持ってきました。そのバナナをゴリラの前に置くと、ゴリラが言いました。「大好物だ」そして、バナナを食べると、巨大化して、ロボットに襲い掛かったのです。戦闘が始まりました。
 ロボットが辛くもゴリラを倒すと、ゴリラは元のフィギュアに戻っていました。そして、その場に「I」と書かれた石板が落ちていました。
 残りの石板は、三角、四角、サイコロ、クモの四つです。
 部屋の隅にクモの巣があることに気づきました。そこに「O」と書かれた石板がひっかかっていました。
 別の引き出しの中に、三角定規がありました。机の上の鏡を見ると、ロボットのつるつるの頭に縦に伸びる細いスリットがあります。そこに定規をはめると、ロボの右耳からぽろっと「U」と書かれた石板が出てきました。
 メモのあったテーブルを調べると、テーブルの底に「C」と書かれた石板が見つかりました。
 サイコロは、棚にある薬瓶の中に入っていました。そのサイコロを振って、ある数字が出たときに、サイコロは「T」と書かれた石板に変化しました。
 ようやく、すべての石板がそろいました。その石板を床に置いて、ロボットは足を延ばして腕を組んでいます。並べ替えようとしているようです。数字と、アルファベットの関係を考えて、ある仮説にたどり着きました。そして、その意味は本棚にある英語の辞書で調べていました。ついでに、ゴーレムについての本も見つけて、読みました。
 その様子をみていた夢遊は、ロボットに近寄ると、用意していた封筒を手渡します。
 その中には、「一を失くしてゼロにする」と書いてありました。
 そうすることで、真理を死へと変えるのです。
 しかし、ロボットは躊躇します。死にたくはないのでしょう。
 とはいえ、もはや、やれることは残されていません。そうするしかないのです。
 意を決して、ロボットは胸の文字を削りました。
 その瞬間、夢遊は瞼を瞑って、ゴール、と念じました。言葉ではなく、意味的にです。
 ガラガラガラと、ロボットが床に崩れる音がしました。 

・夢遊は宇宙を擬人化したものです。少女と書いてますが、実は中性で、中身はなく、表面はつるつるしています。紅白の服は女性と男性を意味します。
・夢遊の観測によって誰伽の時間が流れます。
・その空間は夢のように都合よくイメージが実現します。
・誰伽の体は借り物です。
・夢遊は言葉を使わず、0と1で思考しています。
・誰伽はよくわからない世界を理解しようと知識を得ていきます。全てを理解したとき、誰伽のすべきことは終わります。
・本棚にはアカシックレコードがあります。世界の全てが全9巻で書かれています。ある本を開くと、世界に実在した全ての生き物の一生を追体験します。
・数字は次元を意味していて、9より先は繰り上がり、そうすることで1の桁は0になります。
・EMETHは真理を意味していて、METHは死を意味しています。
・誰伽の世界の全ては、夢遊を楽しませるためにありました。

 石盤を集めると、ある単語が浮かんできます。1~9はそれ、ということです。


いいなと思ったら応援しよう!