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【歴史夜話#4】前半は謙信の勝ち、後半は信玄の勝ち??

 川中島の合戦と言えば、戦国史の二大スター上杉謙信と武田信玄がぶつかった戦として有名ですね。
 この戦いは、いくさがオス同士で強さを誇示する『様式』から、『殲滅』へと変化する時代の、あだ花と言えそうです。
 秀吉はこの合戦を「はかのいかぬ戦=効率の悪い戦闘」だ、と揶揄しました。
 これは兵站という輸送・物流を重視し、戦闘行為はそのなかの一部分でしかない、とする信長、秀吉らとのいくさ観とのちがいが現れた戦いでもありました。

意外につまらない?秀吉評

 領土拡張を目指して軍事侵攻を続けるカイ国は、シナノ国に攻め入ったのち、国境に接する南部から中部を制圧した。
 カイ国の報道官は、憎々しげな表情を強調する西側の映像のなかで、一方的にその領有権を主張する。

 民間人をもターゲットとするカイ国の猛攻に窮したシナノの豪族たちは、テロ行為を止めよ、と訴える。そしてもうひとつの大国であるエチゴ国に軍事支援を求め、資金や武器の供与を受けるのであった。
 そして遂に、カイを率いる総帥シンゲンとエチゴの彗星ケンシンが、直接対決する瞬間がやってきた。

 第四次川中島合戦が行われた永禄四年は、西洋の尺度では1561年になるが、革命的な要素があるとされる辛酉(かのととり、しんきんのとり、しんゆう)にあたる。
 この年、越後の長尾景虎は上杉姓と関東管領職を拝し、上杉政虎と改名して意気盛んだった。

 ファンというのは、物事を複雑にするために存在する。川中島戦も人によって諸説あったが、現在は五回あったことになっている。しかし第四回戦以外は、小競り合いで見るべきものはない。
 事実上、神回と言えるこの第四次を川中島戦と呼べばいいじゃない、と素人の私など思ってしまう。

 シリーズを通しての川中島は、人気作を継続させたい編集部の意向を受け、結局勝敗はウヤムヤになっている。どちらのファンにとっても、自分にとって好ましい結末を主張できるのだ。
 双方が自分の勝ちを主張したのは、言うまでもない。

 秀吉は、「前半は謙信の勝ち、後半は信玄の勝ち」と言ったらしい。
 見たまんまのつまらない判定だ。秀吉ならもっと、ウィットに富んだことを言ってくれそうなものだが。
 この記載は『甲陽軍鑑』にもあり、秀吉のほうは誤伝なのかもしれない。

謙信・信玄の戦闘スタイル

 戦闘経過を実況すると;8月15日に善光寺に着陣した上杉政虎は、兵13,000を率いて妻女山に布陣した。
 いっぽう信玄は、24日に兵2万を率いて茶臼山に陣取って上杉軍と対峙する。妻女山を、海津城と共に包囲する布陣である。

 9月9日(現在の暦で10月27日らしい)深夜、高坂昌信・馬場信房らが率いる別働隊1万2千が妻女山に向い、信玄率いる本隊8,000は八幡原に布陣する。しかし政虎は梅津城からの炊煙が多い、ことから天才的カンで敵のこの動きを察知した。
 政虎は夜陰に乗じた隠密行動で密かに妻女山を下り、川を対岸に渡った。

 上杉謙信(政虎)は毘沙門天に誓いを立て、生涯女性と交わりを持たないから自身を軍神に、と願ったほどの漢。もっとも彼は男色家だったから、痛くも痒くもなかった、とも言われる。
 とにかく、そんな男が武田軍の動きを読んで、奇襲をかけたつもりの相手の裏をかき、信玄本陣を逆に急襲した。

 信玄の軍はオーソドックスな鶴翼と言われる陣形。それに対する謙信軍は、車懸りと呼ばれる先手を入れ替えながら波状攻撃する陣形で、一点集中の中央突破を図る。
 信玄軍は名のある武将を討ち取られる苦戦のなか、一騎駆けで信玄本陣に切り込んだ謙信に、将たる信玄が受けて立つ、という名シーンを生む。

 結局、兵数で劣る上杉軍がより多くの武田兵を討つ(上杉側が3,000、武田側が4,000の犠牲と言われる)、という兵数勝負なら上杉の勝ち。その反面領土としては信玄側が最終的に激戦地を掌握して武田の勝ち、と言える結果に落ち着いた。

 試合解説者は、「短兵急に攻め、相手の戦略を見破って有利に展開した 上杉に対し、武田は犠牲者を出しながらもよく持ちこたえ、領土を獲得した。両軍の良いところが出た好試合でしたね」

ディスプレイから殲滅戦へ

 日本の特撮コンテンツの一分野、戦隊モノを海外に売り込んだとき、海外の人には理解できない行動があった。
 戦隊モノでは、ヒーローが名乗りをあげてポーズを決めるが、敵はなぜこの好機に攻撃しないんだ? というのが外人さんたちの疑問だったのだ。

 これは歌舞伎の見得だが、動物の行動では”ディスプレイ”に当たる。
 ディスプレイ(display)とは、動物が求愛や威嚇のために自分の体や動作を誇示する行動を意味している。クジャクのオスが美しい羽を広げて、自らを誇示するような行動様式だ。
 いにしえの武士が、いくさで旗指物や幟で綺羅を飾ったクジャクになり、実戦ではむしろ邪魔な装いをしていたのは、いくさが殺し合いではなくオスの機能を誇り、リーダーシップを獲る場だったからだ。

 動物が同種でいがみあう時でも、相手を滅ぼしてしまっては種全体として弱体化してしまう。
 日本という狭い土地で覇を競った武士の戦いも、傷つけ合いではなくオスとしての能力に長けている、という誇示の勝負だったわけだ。

 そうした行動が噛み合わなかったのが、モンゴル軍の侵攻だった。
 名乗りをあげる日本の武士に、問答無用で攻撃してきた。日本では、卑怯と言われれば勝ってもリーダーシップをとることができず、勝利の意味が無くなる。
 ところが広い世界では、それが通用しなかった。

 川中島を「はかのいかぬ戦」と言った秀吉や信長は、日本における戦がディスプレイから物理的殲滅戦に移行しつつある、ということに気づいていただろう。

信長、秀吉の敵ではなかった!

 「上杉に逢うては織田も手取川 はねる謙信逃げるとぶ長(信長)」と詠われたように、信長軍は手取川の戦いで謙信に完敗している。また信長は信玄相手に、卑屈なまでに下手に出た外交で戦いを避けた。
 信長と決選する前に、謙信・信玄の定命が尽きたことから、信長はラッキーだったとされる。

 しかし本当にそうだっただろうか?
 川中島でも、主な戦闘が為されたのは9月10月以降の農閑期。つまるところ、謙信・信玄は農閑期に田畠薙ぎや収奪を行った、農兵の大なるモノに過ぎない。

 信玄は武田グループの総帥という位置づけで、実力や奸佞なやり口で指揮権を掌握しているものの、それは個人の力量だ。だから信玄が没するや、武田グループは崩壊した。
 謙信は局地戦に長けた戦争アーティストだが、彼が好んだ戦闘単位は5,000からせいぜい1万の精鋭部隊である。それ以上の兵数は、むしろ足手まといになる。だから瞬発力には長けているが、持久力がない。
 謙信は戦には常勝であっても、戦後処理がまずく味方の離反を招いた。彼の生涯はもぐら叩きのように、叩かれては顔を出す敵をつぶす事に明け暮れた。

 信長軍は、肥沃な濃尾平野の経済力を背景にした、中央集権体勢である。秀吉のような幕僚でさえ、戦というプロジェクトに応じた兵を与力として借り受けるシステムだ。
 農閑期に兵を出し、繁農期には田畑に張り付く農兵ではなく、年間通して働ける専従兵である。

 秀吉が中国大返しのような電撃戦を行えたのは、先祖代々の鎧兜を持ち寄った奉公人ではなく、武器を貸与して身ひとつで移動できる兵制だったからだ。

 川中島でも、兵站線が延びた信玄軍は兵糧の調達に苦しんだ。
 行き当たりばったりの現場調達が当たり前だった旧軍に比べ、信長・秀吉のいくさは、兵站のインフラ整備に始まって戦闘はその一部、というプロジェクトだった。
 謙信・信玄がいくら局地戦に優れていても、信長・秀吉の敵ではなかったろう。

 さて、川中島の合戦の勝敗だが、私的には謙信・信玄が吹聴するように双方の勝ちだと思う。
 信玄の戦略目的は、領地の収奪でその地を経営することで、多大な犠牲を出しながらもその目的は達成した。
 謙信の戦略目的は、小生意気な晴信の横っ面をひっぱたいてやることで、戦史上類のない大将同士の一騎打ちという伝説を打ち立て、目的を果たした。
 双方、戦略目的を完遂したのだから。

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 第四次川中島の合戦があった永禄4年には、松平元康こと家康が三河牛久保城を攻撃して今川氏真から独立します。
 戦国時代に終止符を打ち、長き江戸時代を築いた徳川家康が布いたのは、農本政策でした。これは人を土地に縛り付け、交流を禁じて民をして識らしむべからず、という情報遮断に結びつきます。

 その後の日本人の閉鎖的で陰キャな性向づけに、長き江戸時代の治世方針は深く影響しているでしょう。
 インフラを整備し、人や物の交流を盛んにした信長・秀吉の施政方針が受け継がれれば、日本はどんな国になっていただろう、と思わすにいられません。

#上杉謙信 #武田信玄 #川中島の合戦 #信長 #秀吉 #ディスプレイ

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