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【ファンタジー小説】宇宙樹(4)

(これまでのあらすじ)
 城塞都市アヨーディアの台地『象の舌』へと、歩を進める二人の少年がいた。
 魔除けの腕輪をつけた王族のシータと、幼馴染みの軍人ラマハーン。ふたりは、アヨーディアを包囲する帝国軍の情勢を探るため、熱飛球で飛び立った。

 シータとラマハーンは、飛球からの偵察でアヨーディアは三倍以上の兵力で、帝国軍に包囲されていることを見てとった。
 シータは、『宇宙樹を統べるものは世界の創造主となる』という伝説にカギがある、と考えた。そのため、包囲網を脱出して宇宙樹のあるセレンディアに行く、という考えをラマハーンに伝える。

 そのとき、飛球の上昇熱が高まって係留索が外れてしまう。さらに、帝国の魔法士ラーク=シ・ヤシャによる鴉の攻撃を受けるのだが・・・

 ヤシャの鴉に攻撃された飛球は、幸いにも唯一敵が遠巻きにしていた南東の湿原に墜落した。
 シータとラマハーンは湿原の瘴気に助けられて、敵兵の追撃を逃れる。

 その頃王宮の一角では、カイモン導師が盲目の謎使い士(リドル・マスター)クシャナと面会していた。
 

Ⅰ 脱出

2(承前)

「ケルベロスの気配を感じたときは、駄目かと思った」
「犬は強い嗅覚を持っているからね。腐臭のひどいここでは逆に使えない。それより喉が渇いたよ。この水飲めないかな」
「呑むと死ぬぞ」ラマハーンが冷たく言った。「急ぐんだ。陽が西に沈んでいけば霧が晴れる。見つかりやすくなるぞ」

 次の瞬間、背後からの剣閃を感じて、ラマハーンは飛びすさった。
「だれだ?」
 ふたりの後ろに、いつの間にかひとりの男が立っていた。

「だれだ?」
 ラマハーンが詰問すると、背中に双剣を履いた男が答えた。
「私はサイラス・オルクウム。”王の耳”です」
 長身で細身の、薄い髭を生やした商人のような出で立ちの男で、咥えていた煙草を無造作に投げ捨てる。

「”王の耳”。帝国の犬か。自ら名のる諜者など聞いたことがない」「危ないよ。瘴気に引火する恐れがある」
 ラマハーンの吐き出すような言葉と、シータののんびりした言葉が重なった。

「なに、名まえなどいくつも持っています。ところでシッダータ・アル・アヨーディヤ様。テーベの学寮で一度お会いしたことがありますね」
「あなたも、あそこの学生だった?」
 サイラスと名のった男は、シータが無邪気に尋ねるのに応じた。

「あなた様のように優秀ではありませんでしたので、十以上歳うえの学友です」そして、両肩から短刀を同時にゆっくりと抜き、「このような再会は残念です。できればお怪我をさせず、我が営舎にお連れしたい」
「ぼくを掠っても役に立たないよ。王宮には、ぼくが死んだ方が喜ぶ人間が多いから」

 微塵も皮肉を感じさせない、諦念、いやむしろ悟りに似た口調に、サイラスは初めて興味深そうな表情を浮かべた。
「馬鹿なことを言うな!」
 ラマハーンが怒ったような口調で言い、シータをかばうように前へ出た。

 次の瞬間、サイラスが両刀をかざした姿勢のまま跳躍し、足で払った飛沫が相手の顔に掛かる隙を突いて、右で相手の長刀を抑えた。
 そして同時に、左で頸筋を薙ぐように払った。

 ラマハーンは慌てず、長刀の峰で初太刀を受けるや、柄の部分で相手の左、自分からみると右の短刀をなぎ払った。
 ほぼ同時に、相手が着地するその足に払いを掛けて、転倒する胴へすばやい突きを入れる。

 試技では躱す相手もまれなラマハーンの打突を、しかし相手は海老のように反らした体の反動を使って流した。
 サイラスは左手に持っていた短刀を失っていた。
「まだお若いのに、大した腕前だ!」
「パヤット遣いならば、相手にとって不足はない」

 びしょ濡れになりながらも余裕を見せるサイラスは、しかし相手を見る目が変わっている。
「暗殺剣は初太刀を躱されるともろい」
 ラマハーンが一歩前へ出ると、その間合いぶんサイラスが退く。

 しばらくの間、互いに相手の息づかいを伺っていた。ラマハーンの精妙な剣尖の揺れは、まるで蝶が舞うようだった。
「ラフィルス蝶の遣い手でしたか? アヨーディヤ宗家ダラムの流派ですね」
「我が祖父を知っていたか」

 言うやラマハーンが、アヨーディヤでは珍しい長刀の一本突きを放った。本来、彼は棍(バラーティ)の名手だった。
 頬を掠める長刀をかろうじて躱したサイラスは、後転すると見せて泥水を浴びせ、飛沫の飛程に投げ針を紛らせた。

 この奇計を躱した者はいない。
 サイラスが体の力を抜いた瞬間、身を深く沈めたラマハーンの突きが、下からサイラスを襲った。
 恐るべき反射神経で必殺の突きを反らしたサイラスだったが、体勢を崩して、再び臭い水にむせた。

 しかし今度は彼も、同じ手を喰わぬよう全力で飛びすさると、戦術を変えた。
 ぼーっと立っていたシータの背後に回り、その喉に短剣を当てたのだ。
「シータ!」
 サイラスは荒い呼吸を整えながら、
「元の学友を手荒な目には遭わせたくないのですが」と言った。

 しかし、相手は少しも動じる気配がない。気を失ったか? 
 倒れると却って面倒だ、とサイラスが案じたとき、シータはゆっくりと自ら喉に剣を押し当てた。シータの頸筋に赤い線が入り、サイラスは慌てて剣を戻す。
「止めろ! シータ」

 次の瞬間、数本の投げ矢が跳んできてサイラスは背後に飛びすさった。
「シータ!」
 呼ばわる声と共に、一騎の俊馬が沼地を駆けてきた。
 驚くことに疾駆する白馬の背に人が立ち、近づいた瞬間跳躍してサイラスに太刀を浴びせた。

 髪一筋で剣先を避けたが、それに続く新たな敵の連撃たるや、幾多の戦場を識る王の耳が初めて経験する速さだった。
 相手の剣を受けずひたすら逃げに徹することで、彼はかろうじてそれを防いだ。
 連撃が止み、相手を観察することができたサイラスは、さらに驚いた。

 何年ぶりかで自分を瀬戸際まで追い詰めた相手は、漆黒の髪を彫像のような美しい顔の後ろに編み込んで束ねた、長身の少女だったからだ。
 やや浅黒い肌で、身体は銀色の鎧帷子で覆い、その上から麻の外套を羽織って紐で留めている。

「ヌビアの戦士か。アヨーディヤにこれほどの達人が雇われていたとは」剽げた口調を保つ王の耳の呼吸は、裏腹に激しく乱れていた。「さすがに、これでは分が悪い。今日は引き分けということにしましょう」
 言うが早いか、後も見ずに走り去る。

 その背中は泥と沼の水でびしょぬれだった。
 逃げ足の速さは、武人でなく敵に後ろを見せるのを恥としない諜者の、優れている点である。
 対照的に息も乱していない少女は、手にした長刀を腰の鞘に収めるや、恐ろしく整った顔に険のある表情を浮かべて、シータに歩み寄った。
「手を焼かせるな!」

 透き通った蒼色の瞳が、表情の険しさを裏切っていた。頬を紅潮させているのは闘いによるものではなく、高ぶった感情ゆえのようだ。
「ラマハーン、主がついていながらこの様はなんだ!」
 百卒長は顔をしかめた。
「アスラ。嫌な奴に借りを作っちまった」

 シータの首の傷は浅く、アスラが渡した手巾で簡単に血止めできた。彼はアスラに叱られながらも、そっとラマハーンの側によって耳打ちした。
「この間の武技の大会、決勝で負けたらしいな」
「うるさい。女相手に本気になれるか」

 アスラと呼ばれた長身の少女は、
「また馬鹿なマネを」
 物怖じせずしない口調で叱責した。
 ヌビアびとにしては色が白い彼女の一族は、血筋ではなく個人に使えるため王族にも対等の口をきく。第三王子も身をすくめて言い訳した。

「ちょっとした偵察行さ。予定通りにはいかなかったが」
「あとで絞ってやる」
 そう言い捨てて、美しい毛並みの白馬の手綱をとった。シータは彼女が手綱をとる馬の後ろに跨がった。
「おい、おれはどうなる?」

 情けない調子で問い掛けるラマハーンを残して、アスラは馬に鞭をくれた。
「歩いて帰れ。待ってるぞ」と言うシータの声と、「胸を掴むな。腰に手を回すんだ」というアスラの声が重なりながら、意外と気のあうふたりの姿が遠ざかっていった。

「いつも、すまない」
 シータは疾駆する馬に揺られながら、アスラの背に囁いた。意外に細い彼女の腰を被う革ベルトが滑るので、ぴったりとくっつかないと振り落とされそうになる。

「そう思うなら、もう無茶は止めて!」
 アスラの口調は、先ほどまでと打って変わって湿り気を帯びている。シータの左腕の貝殻が、カチャカチャと音を立てた。
 
 初めて会ったとき、アスラは「その腕輪は何?」と訊いてきた。
 切れ目のない貝殻は、幼い彼女の目にまるで牢獄に繋ぎ止める鎖のように映ったのだ。
 もう十年も前のことだ。
「ぼくの中の、魔を封じ込めてるんだ」
 高貴な衣服が身についていない、同じ年頃の男の子が滑り戸からのぞき込んでいた。練兵場は半地下なので、上から見下ろす格好になる。

 寺院の前庭にある練兵場のなかでは、ヌビアびとの女の子がひとり、座り込んでいる。好奇心に駆られた王族の子、シータは衣服の金糸が汚れるのも構わず狭い滑り戸から潜り込んできた。

「なんで泣いているの?」
 涙の筋に沿ってホコリを頬に付けた、勝ち気そうな女の子は、「泣いてなんかいない。意地悪をされて、悔しいだけ」
「どんな意地悪を?」 

 シャラン。 
 答える代わりに、女の子は傍らの細い長剣を振った。彼女の周りには、へし折れた数本の長剣が転がっている。
 折れていたのは、アヨーディアや帝国では珍しい、しなやかなウルミ剣だった。
 打突に特化した剣で、柔らかい鋼の刀身を使って鞭のようにも使われる。

「これで、アレを突き通すよう師(せんせい)に言われたの!」
 女の子、幼いアスラは壁際に固定された金属の飯盒を指さした。「できなきゃ、次の修練に進めない。でもこんな柔らかな剣じゃ、できっこない!」
 力任せに何度も試技を行った結果が、折れた剣の山だったのだ。

 興味深そうに、柔らかな剣を触っていたシータが言った。
「できるかもしれない」
 疑わしそうなアスラの前で、シータは鞭のようにしなる長剣の剣尖を、ゆっくりと飯盒に当てた。

 そのまましばらく、剣が揺れるのに任せていたシータが、徐々に力を込めると、剣先はすっ、と吸い込まれるように飯盒の中に消えて行った。
 少女アスラの綺麗な瞳が見開かれる。「どうやったの?」
「力任せにやってもダメだよ」

 持ってごらん。 
 剣を持たせた彼女の手に、無造作に自分の手を重ねる。アスラの肘に貝殻の腕輪が当たった。  
「剣先を的にあてがったら、揺れる感触に意識を集中するんだ。剣が的と一直線になったとき、もっとも抵抗が大きくなる」
 
「その瞬間に、ゆっくりと押す」
 ね! シータの言葉通り、しなやかな剣は固い針のように、飯盒の中に刺さっていった。

 ちょうど今と同じ時期、同じ刻限。
 練兵場の滑り戸からは、地平線に消える明けの星、シュクラが輝いているのが見えた。この時節に限り、明けの星は宵にも淡い光を放つ。
 その輝きは見た者の運命を顕す、と言われた。

 幼いアスラは、そのとき自分の運命を知ったのだ。

 アヨーディヤの城壁内では、もっとも北の外れに当たる荒涼とした一帯に、「黒穴」ティアル獄はあった。
 内部が空洞になった石灰岩質の丘に手を入れ、中を獄舎にしたもので、丘の一端は北の城壁に接している。

 そこへ至るには、捻れ合って伸びた針葉樹の枝が幾重にも折り重なった、薄暗くじめじめとした道を通らねばならない。
 クシャナが乗った騾馬が下生えを踏むとき、遠くで狼や名も知らぬ獣の啼き声を聴いたように思った。

 ときに樹皮から垂れる松脂のにおいがするアショーカ樹にぶら下がる蔓草に顔を打たれた。ただハンサ鳥やサーラサ鳥などが、クシャナの耳を慰めてくれるのがありがたかった。
 カイモン導師の修行場から、アヨーディヤ城壁内の北端にあるこのティアル牢までは、騾馬の背に乗り、半日かけてぽくぽくと歩いてきた。

 修行僧のひとりが、騾馬の手綱をとってここまで導いてくれた。沈黙の行を守っているその修行僧には、牢の入り口で待ってもらっている。
 目の見えぬクシャナと、口がきけぬ修行僧の旅路は、思いの外楽しいものだった。クシャナが一方的に話しかけるだけなのだが、彼女は物言わぬ僧の呼吸音から返事や感情まで読み取った。

 誰にも明かしたことがないが、クシャナは相手の呼吸音で嘘をついているのかどうかまで、ほぼ正確に読み取ることができた。
 クシャナは視線の定まらぬ目を、石室の奥に向けた。
 入り口のアーチに付いている、錆びた青銅の蝶番ががちゃがちゃと揺れる。

 樫の厚板を鉄枠で覆った表扉は朽ちており、鳥の糞の悪臭がした。
 門の両端には、往時に衛士が詰めていた小屋、厩舎、厨房、倉庫のあとが、やはりうらぶれた様子で朽ち果てていた。

 クシャナは、握りの彫刻が手になじむお気に入りの杖でさぐりさぐり、ゆっくりとティアル牢のなかへ進んだ。
 内部は明かりがなかったが、彼女には関係がない。ただ音が反響するので少しとまどった。

 自然にできた小高い丘の内部をくりぬいたこの半地下は、人がかろうじて行き交うことができる通路が中に向かって伸びており、これが唯一の入り口になる。
 中を進むにつれ朽ちた木材、湿った土、苔むした石、錆び付いた金具の臭いが、わっと押し寄せてきた。

 内部には冷気が満ちており、それはここで死んだ囚人たちの亡霊、血糊、叫び声、怨念のような負の力が体温を奪うことによって起こるものだった。暗闇に放り込まれることで、クシャナは自分に残っている微かな視力を感じ、より深い闇を、深淵を意識した。

 岩壁を這う百足、蠅、名も識らぬ蟲がカサカサと蠢いている。
 アーチが半ば崩れた門をいくつか過ぎた。反響からこの奥に広場があり、放射状に鳥籠のように牢屋が配置されているらしいことがわかる。

 冷たい石の壁は、手触りから表面に露が落ちているのがわかった。牢の壁は、大魔法士の血を練り込んで作ってあるという。
「魔法の効力を無にする力があるって、本当かしら?」
「本当だよ」
 だれもいないと思って放った独り言に返事があって、クシャナは驚いた。
【ファンタジー小説】宇宙樹(5)に続く)

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