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【本能寺の謎】見えない人(2)

ーこれまでのあらすじー
天正8年5月 明智光秀の謀反により焼け落ちる本能寺。
本能寺に隣接した屋敷をもつ京都所司代の村井貞勝は、陣中で光秀と対峙していた。
なぜこのような謀反を!と問いかける貞勝に語り出す光秀。彼らの背後には、黒人奴隷から信長に取り立てられた弥介がいた。

 信長が上洛したのは五月二十九日のこと。宿としたのは四条坊門通西洞院の本能寺である。
 天正八年二月、信長は京都での居住場所を本能寺に移すことに決め、貞勝に普請を命じた。
 近隣の民家を退去させ掘りをめぐらし、内側には土居を築き木戸を設け、内には仏殿以下客殿その他の殿舎を建て、厩舎も造り、小城郭といっていい備えをあつらえた。

 法華の本能寺では、早くから種子島や、大阪の堺で布教活動をおこなっていたようだ。
 種子島の信者の縁で、本能寺は鉄砲や火薬を入手することが容易であったため、信長は境内地の安堵を約束する代わりに鉄砲や火薬の交易を求めた。

 信長はこの本能寺にわずかに小姓衆二、三十と厩番、中間を伴って申の刻に入る。
雨中、山科まで迎えでていた公卿たちは 無用として追い返されたが、信長のあとを追って次々と入った。

 翌六月一日は、公家たちで寺内はごった返していた。
 所司代として日頃から彼らに接して慣れている貞勝ですら、広間に満ちた白粉や香のにおいに閉口したものだ。
 この日、信長御前で 日海と利玄坊が囲碁の対局を行い、三劫打ち止めとなった。

 三十八種の茶道具を持参した信長は、ご機嫌の体であったが昼過ぎになって表情が変わった。
 京は雨模様だったが、日蝕(部分)が現れたのである。京暦はこれを予見できていなかった。
 上様はいちど決着したはずの閏月の問題を公卿相手に蒸し返した。
 実情に合わない京暦を廃して三嶋暦に代えたい信長が、日食を予見できなかった京暦にケチを付けたのが始まりである。

 不吉な予兆でなくばよいがー
 一時きざした胸騒ぎは、その夜貞勝も伺候した酒宴のなかで忘れられた。宴は遅くまで続いたようだが、貞勝は中座して自邸に退いた。
 まさか、それが今生の別れになるなどとは思いもしなかった。


「なにごとじゃ?」
 蚊帳を開け、目を凝らすとまだ室は暗い。
 宿直の者が言うには、弥介が騒いでいるとのこと。
 弥介は妙覚寺に駐屯している信長の長子、三位中将信忠に仕えて甲州征伐にも同行していたが、この日は子細あって貞勝邸に寄宿していたのである。
 貞勝は着替えに袖を通し、奥書院に弥介を召し出した。弥介には尋常ならざる視力、聴力があることを知っていたのである。

「弥介めがなにごとか感じたらしく」
 軍団がこちらを目指していると?
 貞勝は耳を澄ますが、昨晩の喧噪が嘘のように本能寺も寝静まっており、堀端に棲む蛙の鳴き声が聞こえるのみである。

 半信半疑ながら、宿直の侍を門役に走らせるとともに御番所に人を遣わす。
 上様が入洛している以上、些細な手落ちも赦されない。 
「不審なる奴儕(やつばら)あり」
 早馬を駆って、注進が入ったのが暁の七つ。
 弥介が言いようは当たりしか。

 すぐにおんなどもを起こし集め、ふたりの息子とそれに弥介を伴って街路に出た。
「いずこの手のものぞ?」
 松永、三好らの党が京を跋扈したのは、すでに昔の話である。
 いま信長が制す京を脅かす勢力が居ようとは思えず、それがゆえの油断ではあった。

 のちに「城介(織田信忠)が別心か?」つまり信忠が反逆したか? と、信長が問うたという異説が生まれるほど、このときには、明智光秀と謀反という言葉は結びつかなかった。

「桔梗の旗指物が見ゆれば、明智の手の者なり」
 貞勝は息子ふたりと供回りを引き連れて明け方の下京へ出た。
 二百四十人の配下の屋敷は、下京に固まっており、それらを集めようと思ったのだ。 

 明け方の墨色の空気よりも黒い弥介の顔が、側を離れず尾いてくる。その弥介がなにごとか囁き、一同を物陰に連れ込んだ。  
 ひたひたと、気配を殺して走る一団が見えた。
 物陰に隠れて 先鋒と思しき一隊をやり過ごす。貞勝は私語もなく統率のとれた殺気に満ちた一群の兵に、不気味さを感じていた。

 馬の沓を切り捨て、足半(あしなか)を新しくしている。
 蛍のような光は、鉄砲の火縄を一尺五寸に切って、火先を逆しまに持っているがゆえか。
 この周到さはやはり明智に相違ない。
「我が手落ちじゃ」
 貞勝の長子である現所司代の貞成が悔しそうに呟く。

「惟任光秀が本気で謀反の企みを起こせば、それを察知するは不可能であろうよ」
 貞勝は慰めの言葉を口にする。  

 いへやすさま御じやうらくにて候まゝ、 いゑやすさまとばかり存候。 ほんのふ寺といふところもしり不申候。
 ――家康様が御上洛されておりましたので、目指すは家康様がお命とばかり思っておりました。本能寺などというところは知らず、まして、そこに居られる信長様を害すなどとは夢にも思わず。とのちに明智勢先鋒の兵が回顧している。

 貞勝が嘆じた如く、光秀の奇襲は先陣の歩卒すら目的を秘匿されたうえでなされた。
 騎乗していた斉藤内蔵助(利三)の子息と小姓に導かれて、先鋒の一隊は片原町に出、堀際を東へ向かった。さらに別の一隊は北に向かい、たれも寺域から逃さぬ配置をとる。

 先鋒隊は開いていた門から寺内に入ったところ、当たりは寝静まっており、御奉公衆が袴に片衣で、股立を取り、二三人が堂の中へ入ってくるのにかち合った。

 一人が帯もせず奥の間よりいで来たり、また別の者が刀を抜いて浅黄色の帷子を着て出てきた。
 その時に、かなりの人数の明智の兵がなだれ込み、信長の近侍はたちまち崩れる。
 襲撃側は吊ってある蚊帳の陰に入り、近侍が出てきて通り過ぎようとしたときに後ろから切りつけた。

 やがて大軍が寺を囲み、銃声が轟くのを聴くに及んで、貞勝は絶望感に包まれた。
 配下の二百人程度の兵を投入したところで、もはや焼け石に水の戦況だった。
 上様お側に参ずることもできず、おめおめと逃ぐるのみか。 

「信忠様が宿所に参ろう」
 村井貞勝はふたりの息子と弥介を伴い、北東に七町ばかり離れた衣棚押小路の妙覚寺へと向かう。
 城介信忠も異変の出来を知り、まさに本能寺に駆けつけるところだった。
 信忠は武田攻めご成功の祝いに安土を訪のうていた徳川家康と穴山梅雪の警護で二十一日に上洛していたが、父信長の上洛に合わせ、家康に同行して堺へ行かず、妙覚寺に宿営していた。

 貞勝は、悲痛な面持ちで信忠に告げた。
「もはや本能寺は落去、信長様がお納戸も焼け落ちてござります」
 京を退転し、再挙を勧めた。
「か様の謀叛によものがし候はじ。雑兵の手にかゝり候ては後難無念なり。爰にて、腹を切るべし」

 このような謀反を企てるような奴儕が、万が一にも退去者を見逃すことがあろうか。無名の者の手に掛かるも無念なり。ひと当てして意地を見せてくりょう。

 やはり、 お世継ぎ(信忠)じゃ。
 貞勝は嘆息した。
 これが上様(信長)であれば、尻からげて単騎脱出するであろうものを。

 武田信玄は、謀略悪逆の限りを尽くしたがゆえ、裏の事情にも通じていたが、その遺髪を継いだ四郎勝頼はきれいごとの世界しか知らぬため、信長の手により滅びた。
 名ある武者ならば、みな肉親の血を浴びる地獄の業火をくぐってきている。それがため生きるためには悪逆の世界に身を浸さねばならず、そのような汚い姿を我が子には見せられなかった。

 そのため、親のきれいな面のみを見て育ったきれいな和子たちは、一様に乱世に身を処すすべを知らなかった。
 信長様にてしかり。
 貞勝も息子貞成に逃げて欲しかったが、拒否するのは目に見えている。

「さにあらば、二条の御新造は御構良く候わば立て籠もるが上策にて」
 二条の新御所は妙覚寺の卯(東)にあり、これもまた貞勝が普請した信長の京屋敷である。
 その後天正七年の十一月に、誠仁親王に譲渡された。
「二条の御新造へお籠もりあそばせ」
「詮無きかな」

 たれより京の地勢に明るい先の所司代が言うのであれば、と信忠は二条新御所で一戦に及ぶ決意を固める。 
 ただひとつ、懸念事項があった。
「御所には親王がおわすにちがいなし。たれぞ、明智に使いし、御動座の猶予を請わねばなるまい」

 誠仁親王がおわす限り、光秀は無道なまねはすまい。と思っていたが、やはり信忠は親王御退去に力を尽くすようだ。 
 明智の軍に談じて一時休戦を請い、親王に退去いただくよう交渉に当たらねばならない。
「手前は日州とは昵懇の間柄なれば」

 この使いは並の者では務まらぬ。
気が立っている軍勢に向かい、交渉に向かえば思わぬ事態が出来するやもしれなかった。
 貞勝は弥介を伴い、明智の陣へ赴いた。(続く)

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