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【本能寺の謎】見えない人(4(完))

ーこれまでのあらすじー
天正8年5月 明智光秀の謀反により焼け落ちる本能寺。
本能寺に隣接した屋敷をもつ京都所司代の村井貞勝は、陣中で光秀と対峙していた。
なぜこのような謀反を!と問いかける貞勝に語り出す光秀。彼らの背後には、黒人奴隷から信長に取り立てられた弥介がいた。
貞勝は、実際は日本語を理解できる弥介を使い、人身売買を行う輩を捕縛した経緯を語る。

ーそして貞勝は、光秀が謀反を起こした驚愕の動機に関する推理を口にするー


 その夕刻、細作が報告をもたらした。
 勧修寺晴豊はその足で、茶屋四郎次郎の屋敷を訪ねている。
「茶屋か」
 貞勝は苦薬を呑んだかのようなしぶい表情になる。

 茶屋四郎次郎は、呉服師を世襲した京都の豪商で、当主は代々「四郎次郎」を襲名する習わしであった。
 当代は茶屋四郎次郎清延である。 
 清延は徳川家康の意を受けて、朝廷に取り入っていた。その窓口が勧修寺晴豊である。すでに新上東門院に取り入ることに成功している。

 貞勝は細作を忍び入らせようとしたが、茶屋の邸には侵入できず、また草と呼ばれる伏せ忍を送り込んでも、いつの間にか刈られてしまう。
 この一事をもってしても、茶屋が単なる商家ではないことがわかる。
 曲者じゃな。少なくとも乱波しごとでは我らより得手じゃ。
  
 清延は家康に付き従って三方が原の戦い(一五七二年)、長篠の戦い(一五七五年)など含め五三回も戦陣に参加、軍功もあったというから、武人としても一流だ。
 茶屋家は橘の家紋を用いているが、これは三方が原の戦いの後で、家康から褒美として下賜されたという。
 堺衆との繋がりから、あるいは人買い人売りにも関与しているやも知れない。

 貞勝がふと我に帰ると、本能寺での謀反に心身ともに疲れたか、光秀はうとうととしている。
 寝ているのか、と思ったとたん目を見開き、
「人買いの調べは、つき申したか?」と問うた。
「いや、すぐには調べもできなんだ。甲州武田攻めがあったげにな」
それに、と慎重に言葉を継ぐ。
「おことも承知の家康公の一件じゃ」

五月十五日
 信長様は武田四郎勝頼一類を討ち果たし、ご本意達せられしのち、功あった家康公に駿河・遠江を進めた。
 その御礼として、家康および彼が調略した武田の降将、穴山梅雪が江州ばんばの仮殿から安土に着到された。

 貞勝はこの日、思わぬ謀を信長側近の堀秀政から内々に聞かされた。
「こたび、上様は家康公をば仕物に懸けるおつもりじゃ」
「まことか?」
「上様は、家康公が穴山を調略したるを不心得とお考えじゃで」

 家康は、武田の有力な将である穴山梅雪を所領安堵を条件に寝返らせた。自ら信長にとりなすとの約束のうえである。
 播州を攻める秀吉が宇喜多直家を調略したとき、信長は褒めるどころか越権行為であるとして怒った。
 結果としては秀吉の策通りに宇喜多を寝返らせるのだが、信長への事前の打診がなかったことを責めたのだ。

 越階の沙汰じゃ。
 その点、万事に率爾ない家康のこと、穴山の調略は逐次信長に打診しつつ事を運んだに相違なく、遺漏はなかった。当時、信長もこの措置を追認していたはず。

「ところが、いざ武田攻めを行うや、このていたらく」
 長篠での敗戦のあとの武田四郎勝頼は家臣に見放され、おどろくほど簡単に武田討伐が成ったことが、家康の不幸となった。
「穴山めも、所領安堵してまで調略するほどのことであったか、との思し召しじゃ」

 同じ武田の一党、木曽義昌が忠節(寝返り)とは異なり、梅雪の調略は無用だった、と仰せじゃ、と秀政は声をひそめる。
 信長は、家康が敵情を見誤り、武田を過大評価していたことを怒ったのだ。しかし、この怒りを直接ぶつける大義名分がなかった。家康は事前に信長の承諾を得ているのである。

 そのうえ戦後、遠江・駿河を家康に与えれば、信長版図の中枢に大きな穴が開いてしまう。
「そこで、仕物に懸けることになされた」
 刺客として選ばれた惟任明智光秀は、天正七年の丹波八上城攻めの際に、城主の波多野秀治、秀尚兄弟ら主従十三人を酒宴の場で謀殺した実績がある。

 貞勝は宣教師ルイス・フロイスが光秀を「裏切りや密会を好み、己を偽装するのに抜け目がなく、いくさには謀略をなし、奇道と策謀の達人であった」と評していたことを知っている。
 光秀もまた 修羅の戦国を生き抜いてきた鬼神のひとりである。

 五月十五日、家康が戦勝祝賀のために穴山信君(梅雪)の随伴で信長を安土城に訪ねた際、当初、光秀が饗応役となった。
 このとき上様と光秀のあいだで、悶着があったらしい。
 細作の報告から、毒殺、もしくは仕物に懸けることを光秀が拒んだらしい、との消息を貞勝は聞いた。

 貞勝は光秀とともに京を治めていた時期があり、連署で発給した書面も多かった。そのため光秀の心事にもある程度通じている。
 八上城の謀殺において、波多野兄弟を欺くため、光秀は母を人質として差し出し、その人質が殺されるのを承知のうえで 謀殺を果たした。 
 また織田家宿将である佐久間信盛を信長が追放したとき、光秀は讒言を行って信盛から恨まれている。 

 これらの犠牲と引き替えに光秀は織田家随一の功名を得たが、彼の心は多くの血を流していたにちがいない。
 光秀が家康暗殺の命を賜り、せめて謀殺ではなくいくさの場で討ち取りたい、と願ったとしても無理からぬこと、と貞勝は思う。
 こうした主従の齟齬の間、家康はするりと企みを躱して、安土をあとにする。

五月十七日 
 惟任日向守(明智光秀)は安土より坂本に帰城、秀吉の援軍として中国出陣の準備を始めた。
「まこと用心深いの」
 貞勝は、家康の事績を追いながら呟く。

 松平元康と呼ばれ今川家に属していたころ、義元が桶狭間で敗戦後、当時今川方だった武将は敗戦の噂を聴くや浮き足だって逃げ散ったなか、家康の軍のみ丹念に義元敗戦の証拠を確認したのち、退いていった。
 家康が容易には仕物に掛からぬのは無理なからぬこと。
 そう思う一方で、貞勝には不審に思うことがあった。
    
 家康が謀殺されるとの噂を、士卒のみならず宣教師さえも耳にしていることだ。 
 いずこから漏れている?
 貞勝は家康に近い茶屋四郎次郎が怪しいと睨んでいる。  
 噂が流布されたことで逆に謀殺はやりにくくなる。茶屋四郎次郎は、こたびの安土への誘いが信長の罠と察知し、わざとそのような噂を流しているのではないか。
 家康は京をやり過ごし、堺へ遊覧に向かってしまった。

 一方、かねてより町衆を詮議していた人買いの下手人探索が佳境に入りつつある。
 京を離れて、越権ながら堺を探索し、茶屋四郎次郎はこの件に直接は係わっておらぬことがわかった。

 驚いたことに、ポルトガル宣教師の一部が係わっているらしい。
 イエズス会の内部でも、スペイン、ポルトガル、イタリア人の宣教師の間で布教方針に関する軋轢があるようだ。
 ポルトガル人宣教師は日本人を見下す傾向が強く、伴天連への改宗者はともかく、他の宗徒を人の範疇に含めたか疑わしい。

 貞勝はポルトガルの商人、宣教師に連なる者の探索に弥介の手を借りて成果を上げつつあった。
 白人が黒人を買うのではなく、黒人が黒人を売るのだ。
 日本においても、日本人が日本人を売るのである。人買いも、周旋するのは日本人であった。

五月二十日
 貞勝は上様が上洛する、との内意を受け宿陣の手配を行った。
 本能寺は天正八年の二月に普請を命じられて、貞勝自ら普請奉行となって一年をかけて手を入れてある。

 穴山梅雪を伴って堺に逃げた家康も、信長上洛となれば看過できず、種々便宜の返礼として再度上洛せざるをえない状況となった。
 信長様は、羽柴の援軍としての惟任明智軍を閲兵のため京に引き入れ、理由をつけて穴山を成敗するつもりである。そのさい家康は巻き込まれて命を落とす手筈であった。

 光秀も仕物や毒殺などではなく軍を使い、穴山成敗にかこつけてならばと、家康暗殺を承知したらしい。
 名人の将棋を見るようじゃ。
 将棋好きで吉田兼見などとよく盤を囲む貞勝は思った。
 あざやかな詰め。
 一手ごとに死処に敵を誘導していく。わかっていても回避しがたき妙手の積み重ね。
 三方原で信玄が家康を追い詰めていったように。

 家康は三方原ではあく強く危地を脱したが、此度はいかがであろう?
 明智の軍勢に囲まれてしまえば、いかな家康にても逃れようはあるまい。
 だが、なにかが 違う気がした。
 将棋では都合良く運んでいるときほど、思わぬ切所に立ち至り、足元をすくわれるもの。
 上様に限り、そのような下手を打つことはあらまい。貞勝は無理矢理自分を納得させた。

 結局、あのときの勘は正しかった。

 焼け落ちる本能寺の断末魔の音を聴きながら、貞勝は思った。
「おことが本気で仕物を謀れば、此度の謀反のごとくに噂などが流れることはまずない。
 それが、家康殿謀殺に限っては下々の兵にさえ噂になるほどであった。茶屋四郎次郎が仕業と思いしが、おことが家康と通じておったのじゃな」
 光秀は目を閉じ、否定も肯定もしない。

「愛宕にて連歌の会には、すでに意を決しておったか」
 朝廷からの要請。義昭からの誘い。家康を謀殺することへの嫌悪。己が病による明智の家の先行きへの不安。それらが重なって光秀を侵食していき、あの歌になった。 

 愛宕山は山城国と丹波国との国境に位置し、京から最初に朝日をうけることから「朝日峰」とも称される京北の霊山である。
 五月二四日、光秀は山城国愛宕山の威徳院で、明智光慶、東行澄、里村紹巴、里村昌叱、猪苗代兼如、里村心前、宥源、行祐らと百韻を巻いた。

 発句は光秀の、
「ときはいま あめがしたしる さつきかな」
 明智の祖「土岐」をいいかけて、さらに「雨が下」に「天が下」をかけ、信長生害という宿願を祈請したものだ。
 脇は威徳院行祐の、
「水上まさる 庭の夏山」
一年ほど前に丹波宮津で細川藤孝が詠んだ句
「夏山うつす水の見なかミ」
 にも似て、深読みすれば藤孝が同心の意を汲んだものともとれる。

 本能寺が燃え落ちる音は小さくなりつつある。
 信長様の消息は知れない。
 イスパニア商人がのちに書き残しているところによれば、信長は彼の口に手を当て、「余自らが死を招いたことよ」と言ったとある。

 家康謀殺の計に溺れ、刺客である光秀の裏切りにまで気が回らなかった己が不明を言ったものか。
「最後に今生の別れと思い、教えてくりゃれ」貞勝は沈黙する光秀に向かって言った。「明智が一党が信長様に謀反の次第は了解したが、惟任光秀は何故にこの老いぼれ、村井春長軒をば葬ろうといたした?」

 重い沈黙が垂れ込めた。
「なぜ、そうは思われるや?」
 光秀が問いかけに、貞勝は答えた。
「年寄りは回りくどいが、赦されよ。先に茶坊主が公案にて『見えない人とは如何?』をば申し上げた」
 
 その場に居るのが自然な人物は空気になりうる。黒坊主、弥介は言葉がわかるのを隠し、見えない人になりきって密偵のお役を果たした。
「同じく、茶坊主(ブラウン神父)が公案に『木の葉を隠すにはいずこに?』があるを存知おるか?
 貞勝は相手の返事を待たずに続ける。

「木の葉を隠すには森の中。が答えじゃ。
 ひとつの殺しを隠すには、大きな殺し合い、例えばいくさの中に紛れ込ませればよい」
 光秀の眉がかすかに動く。
「この老いぼれをば葬ろうと思わば、信長様ごろしのなかに紛れ込ませればよいのじゃ!!」

「後の世にて史家は頭を悩ませるであろうの。
 惟任明智光秀は、何故に信長様に背いたか?
 その一方、たれひとりとして思うまい。何故に光秀は、春長軒村井貞勝をば葬ろうとしたか、などとはな」

貞勝は外の音に耳を澄ませる。
「本能寺ははや焼け落ちた。信長様を恨む妄念が焼き尽くしたかのようじゃ。
 しかるに隣接するわが邸は火が懸けられておらぬ。我をば確実に仕留めたるを検分する必要があったがゆえな」

 村井の邸は焼かぬようにと、兵に触れておいたに相違ない。骸が焼けてしまわぬように。
「上様を生害された本能寺には火を懸けた。焼け落ちてしまえば、御遺骸の実検は困難になるにも係わらず」

 むしろ光秀の立場ならば、信長の死を確実に披瀝するのが戦略上必要なことだ。  
 実際、秀吉は信長の首が見つからぬのを逆手に取り、信長親子は無事逃げ延びたと虚報を流して、近畿の勢が反逆者光秀に付くのを妨げている。
「それなのに我が邸には火を懸けず、畳に穴を穿ち、床下から天井裏までくまなく検分する念の入れようじゃ。
 どう見ても真の狙いは、この老いぼれ春長軒を確実に抹殺することにあったとしか思えぬ」

 弥介がたまたま寄宿していた、という偶然がなくば光秀の望みはかなったであろう、と貞勝は思った。
 確かに光秀は、斉藤利三、家康、足利義昭、上皇を筆頭にしたおじゃる達など信長に恨みを含む者たちに推されて本能寺を襲撃した。また己が病により明智家の行く末を悲観したのも事実であろう。

 しかし同時展開された村井貞勝抹殺こそが、光秀個人の真の動機であった。 

「いずれ命に背く以上、信長様を生かしておけぬ、とは思ったであろうが、本筋は本能寺に隣り合う我が邸の襲撃にあったであろうが」  
「本能寺に火を付けたるは、上様ご本人が小姓らに命じてのことじゃ。己が骸を渡しとうなかったとみゆる」
 光秀は言った。しかし貞勝の問いを否定もしなかった。

 そうか!
 貞勝は逆らわなかったが、さらに言いつのった。
「放っておいても我が定命はあとわずか。それをまた何故さらに縮めようとした?」
「察しておるはず」
 貞勝は嘆息した。

 光秀とは、個人的な恨みを買う間柄ではなかった。彼を襲う理由は、京都所司代としての活動のなかにあると思われた。
 いくさに掛かる戦費は莫大だ。
 秀吉は生野銀山を抑え、その資金力が飛躍の種になっている。のちに肥後の支配を任された貞勝女婿の佐々成政などは、戦費調達のため過酷な検地を行い、叛乱を起こされている。

 光秀が治めた丹波で、彼は無道な課役や年貢取り立ては行っていない。
 それでいて信長の過酷な要請に応えて各地を転戦している。では、いったいどこから戦費を調達したのか。

「領民を慈しみ、かつ上様の要請には真摯に応えた。ただそれだけのことじゃ」
「日州よ。まこと言葉通りならば、なぜ我を葬ろうとした。天道、外聞を憚る必要あってのことであろうが」
 光秀は苦い顔つきとなった。

「大名ならば、たれもがやっておること」
 捕縛した敵衆を人買いに売ることなぞはな。貞勝は言を引き取る。
「ただ、その売り先が異国へ、とならば話は別じゃ」

 十年ほども前に、ポルトガル王は、日本人奴隷の売買を禁ずる布告を行った。日本での布教に影響する、との宣教師の訴えによるものだが、逆に言えば 子女の売り手があったことを意味する。

 日本人が日本人を売る。
 貧しい庶人は年貢に代え その子を売り、大名が堺などの商人を通じて戦費調達や火薬、鉄砲の調達に宛てていた。
 日本における人身の売買を禁ずるよう働きかけたのは宣教師であった。しかし 宣教師のいう「ひと」とはなんであったか?

 ポルトガル宣教師は異教徒の奴隷を教化し、つまり人でない生き物を人にすることをむしろ誇りとしていた。 
 人となった異国人は、男ならば兵士に。女は見目良くば商人に売られる。  
「売り先が異国に繋がっておったとは知らなかった」
 たぶん嘘ではあるまい。この期に及んで嘘を言う必要もない。
「儂が人売りの親玉をつきとめたを、知ったのじゃな」

「この光秀、その要あらば主殺しの汚名をも着よう。
 したが、もし本朝の民を異国へ売っていたと知られれば、我が一族、この日の本に棲むすべがない」

 貞勝は改めて嘆息した。
「儂は信忠様と共に討ち死にの覚悟じゃ。この秘事はたれにも明かさず、墓場へと持ってゆく」

 光秀は瞑目し、「すまぬ」とだけ言った。
「弥介」
 わかったな、と言う。
 弥介は込み入った話の内容を理解しえたかどうか、「御意」とかしこまってこうべを垂れた。

 ある者は肌の色の違いを人かどうかの境となす。またある者は幼児や胎児を人と思わず、年齢をもって境となす。信長様は、その内面を見る目を持っておられた。
 人が人たるの境は、線引きをなす者を顕す。

 我も弥介のように見えない人になり、本能寺の乱に追随して死んだ者のなかに埋もれるであろうな。貞勝は二条御所に退き上げながら思った。

 もうひとりの見えない人、弥介は自分を人として見てくれた信長のため奮戦した。  
 荒れ狂う十人力の弥介を囲む物頭は、声を枯らして叫ぶ。  
「断じて殺すでない」
 この大力の黒人を鉄砲や弓で射殺すことを固く停止されていたため、多大な損害を被る。
「光秀様が命じゃで。生かして捕縛するのじゃ」

 やっと捕縛された弥介に対し、光秀は裁定を下した。
「獣のようなものじゃ。解き放ってやれい」
 信長によって人となった弥介は、また見えない人、人ならぬものとなった。その後の彼の消息は杳として知れない。
(了)

(主な参考資料)
「真説 本能寺の変」安部龍太郎ほか 集英社
「本能寺の変」新・歴史群像シリーズ9 学習研究社
「信長の天下所司代」谷口克広 中公新書
「クアトロ・ラガッツィ 天正少年使節と世界帝国」若桑みどり 集英社

『世界ふしぎ発見』2013年6月8日放送分
「ウィキペディア」ほかWEBからの情報

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