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Back to the world_002/老人

地上ーー。

 妊婦は横向きの優先座席に座っており、できうる限りに身体を縮めて手提げ鞄を抱きしめていた。バスの進行方向だけを向いて、後ろで奇声を発している老人を見ないようにした。嫌な予感がする。運転手が声に気づいて何度か振り向くがはっきりと様子が掴めないでいる。いつもは混雑でなかなか進まない道なのに、バスはちょうど、車の流れに乗ってスムーズに走っていた。

「キッキェー!…キョッ、キョキョキョ!」

老人は叫ぶと、爪を噛みながら最後部より立ち上がり、空いた席から席へジグザグに前へ移動して来る。数人いた乗客たちは顔をしかめたり仰け反ったりしたが、老人はそれらには反応せずに宙を見つめ何事か呟いていた。

「アーウ、アーウ、あ!ウンウンウン、、、かぁ、そういう事か!キヘッ!」

妊婦の予感通り老人は目の前にやって来て止まり、悪い事には明らかにこちらに興味を持っている雰囲気を醸し出している。恐る恐る顔を上げると老人と目が合った。一点の曇りもない瞳だったので、妊婦は一瞬だけ拍子抜けした表情になった。

「エウッ!…アーーッ!」

老人は妊婦の肩に手をかけると、乱暴に立たせて後方へ突き飛ばした。ダダダッ、とよろめいて、妊婦は後方の座席の背もたれを掴んで止まった。老人は妊婦の手提げの中から青い毛糸玉を取り出してつまみ上げると、指で回転させながら真剣に眺めた。バスが左折してすぐに信号で停止すると、運転手が近づいて来た。

「お客さん、ちょっと!ちょっとアンタ!」

最後部席に逃げた妊婦は、老人とまた目が合った。老人はその瞬間、知的な表情で首を傾げた。まっとうな人間のそれだった。

「…ふむ」

ガシャーッ!…老人の真上だった。ものすごい衝撃音がして、何か巨大な物体が一瞬でバスの天井を突き破り床に突き刺さった。

バスは『く』の字に折れ曲がり、その床は地獄の裂け目がいろんな物を引っ張り込んで飲み込もうとしたかのように見えた。首都高から落ちて来たファイヤーバードが、バスのど真ん中を突き刺したのだ。

                ○

頭上の首都高速ではボンネットの潰れたBMWのクラクションが鳴り響いている。パーマヘアの男は外壁にもたれると、頭を抱えてうずくまった。猛スピードで走って来たBMWが軽トラックに激突し、ファイヤーバードを外壁の外へ押し出したのだ。軽トラックは外壁にめり込んで止まり、運転席が半分空中に飛び出したまま引っかっかっていた。
坊主頭の運転手は歯が折れていたが、ダッシュボードに散らばるタバコをありったけ咥えて窓から這い出ると、大した事でもないように外壁へひょいと脚をかけて道路へ戻った。
BMWを運転していたポロシャツ姿の若者が腕を押さえながら呆然と立ちすくんでいた。その様子を見てわずかに表情を緩めると、タバコを一本だけ手に取って残りをばらばらと吐き出して下に落とした。深呼吸ののち、一服決め始めた。

 妊婦は下半身をバスの座席の最後部に載せるような格好で床に手をつき、腹這いに倒れていた。薄れて行く意識の中で、ファイヤーバードのボンネットから床の裂け目に流れて行く赤い血液を見ていた。貼りついた青い毛糸玉が少し遅れてゆっくりボンネットを滑って来て、ぽとんと落ちた。■


とにかくやらないので、何でもいいから雑多に積んで行こうじゃないかと決めました。天赦日に。