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酒とビンボーの日々 ⑤ビンボーで殺して

旧年中はずいぶんとビンボーを喧伝してしまったが、
今年も懲りずにやっていこうと思う。

年が変わったからと言って、ビンボーであることには変わりがないからだ。

さて、僕は「食べログ」とか「YouTube」なんかで
誰も行けないような高い店が掲載された記事や動画を観て、ため息をつく。

ミシュランガイドで星が付いた蕎麦懐石、
予約が取れない会員制の鮨屋、
帝国ホテルの鉄板焼店で食べる夕食、
挙げてみればきりがない。

うらやましい。
とにもかくにも、うらやましい(笑)

だから、
そういったようなものは見なければよいのだが、
それを見る自分を止められないのである。

それは40代も後半になっても、それは変わらない。
そんな、
しょーもない自分にいささかうんざりもしている。

僕も、そういった高級店に出入りして、
美味しいものをたらふく食べ、美味しい酒をたらふく飲みたいと思う。
僕はそういったことにお金を使いたい。
もしくはそういったところに自分のカネでは行きたくない。

美食を突き詰める生活、
それさえできれば莫大な不動産とか、会社の株式なんて
僕にとって無用の長物である。
だけど美食にはカネがいるのだ。

本当に自分のことながら、自分のことを俗物中の俗物だと思う。
その針が振り切れるところまで振り切れているのが、僕という人間なのだ。

ある時、
守護霊が見えるという触れ込みの歌手と一緒にご飯を食べたことがあった。
その歌手から食事中にじろじろと遠慮のない視線に晒され、
なんともむず痒いと思ったら、帰りしなに、

  「あなたねえ、外見は静かそうな顔をしているけど、
     皮膚の下にはとんでもない“嵐”を抱えているのねぇ~」

               と、ほとほと呆れられるように言われた。

そのことが昨日のように思い出される。
皮膚の下に抱える嵐… 
僕には覚えがいくつもあって両手じゃ足りないね(苦笑)

そして、僕の憤りはまだまだ続く。

世の中には不労所得で遊び歩いている人間が意外といる。
その人自身が生まれついたところが金持ちだったというだけで、
その輩は就職もしないで遊び歩き、
    ある日、親の跡目をポンと継いで社長になったりする。
もしくは同族企業に就職し、
    ポンポンと出世して、急に取締役になったりする。

僕はそういうことが、うらやましくて、うらやましくて仕方がないのだ。

オマエいい年こいて、何言ってるんだ!?、と言われるのだろうが、
なんで日本人ってそういうことに憤りや嫉妬を感じないでいられるのだろうか? そのほうが理解できない。

そういうもんだから仕方がないじゃん、
     とかで済まされるような問題なのか?
「ルサンチマン」を感じないのか?
こんな奴らのために自分が「ビンボー」という辛酸をなめさせられているということに憤りを感じないのだろうか?

そんなに人間と言うものはものわかりがよいものなのか?
この齢になっても、僕はまったくもって理解できないことのひとつ。
世が戦国時代であったら世の金持ちは、ただではおかない(笑)

食べログなんかを見ていると
どう見ても自分よりも年下の奴が、
平日に岐阜だか飛騨の山のジビエを食わせる専門店に車で乗り付けるとか、
お目当ての料理を食べるだけに沖縄の離島に行ってみたりしている。

うらやましい。うらやましくて震えが来てしまう(笑)

諸氏は映画の『太陽がいっぱい』をご存じだろうか?
あのアランドロンが主演の映画で、トム・リプリーという青年が主人公。

トムは貧しく孤独な青年で、フィリップはアメリカの富豪の息子。
そのフィリップを5000ドルでアメリカに連れ戻しを依頼されたトムはローマにやってくるのだが、自分を見下すフィリップに嫉妬と殺意を覚え…
結局、トムはフィリップを殺し、フィリップになり替わろうとする。

金持ちの傲慢さに嫉妬を抱きながらも、憧れる気持ちもある。
両面感情が殺意に振り切れるとき、アランドロンはとても美しい目をする。
そこには同性愛の薫りもする。

後年、リメイクされたマット・デイモン主演の『リプリー』はさらに
同性愛のシーンも登場する。

僕もトム・リプリーと一緒になってフィリップの殺人を追体験している。
何度殺しても飽き足らない。それほどまでに金持ちへの憎悪が増幅される。

遠い目をしながらビフグルマンの店を探しても
僕が行けるような店は1軒もないことに気付く。
なんならチェーンの「日高屋」にも行けない。だって、千円超えるから。

貧乏人が取って代われる世の中になったらいいのになと思う(笑)
これだけ物騒なことを言ってきたのに、まとめは呑気なのだ(苦笑)

革命があったとしても、それは金持ちと貧乏人が入れ替わるだけだろうが、
僕自身は革命に勝って、余裕をぶっこいて美味いものをたらふく食べたい。
要は、「自分のターン」というものを手にいれたい、だけだ。

現世はつつましくしていれば、来世では良い目に遭う、
という、どの宗教でもあるお題目があるけれど、
現世で良い目を見なくて、何のために生きているんだろうね?
現世的な幸せを否定することは
   人間の存在を否定することと同義ではないのだろうか?

周囲から俗物と言われようが、
僕は俗世欲に苦しみながら現世的な幸福を夢見つづけるのである。



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