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遊園地は何を売っているのか、という話

最近、ディズニーランドへ行った。

入場料金は、決して安くはない。そのお金に見合ったリターンがあると考えるから、僕はそのお金を払う。

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お金は、価値を交換するための媒介として生まれた。

それ以前は、物々交換がベースになっていたと言える。お金がなかったとしたら、僕が、Aさんの持ち物を欲しいと思った時、Aさんも僕の持ち物を欲しいと思って、それらを交換するしかなかった。

だからお金は、価値の尺度であり、交換ツールとして存在する。

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しかしながら、遊園地の入場券で買えるものは、基本的に「物」ではない。

入場券を買うという行為は、そこで得られる「体験」に対してお金を払っているということになる。

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「体験」に対してお金を払うことは、実際には日常的にやっている。

美容院に行くときには、髪を切ってもらうサービス(体験)にお金を払っているのだし、カフェは空間という体験を提供しているビジネスだと言える。

しかし基本的に、そういうものは全てビジネスであり、何らかの消費者の負を解決することが焦点に当てられている。

遊園地の特殊なところは、そこで得られる体験が、明確な問題解決にはないところにある。

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もちろん遊園地を、「子供がのびのびと遊べる空間が少ない」という問題への課題解決策として定義することもできる。

しかしそれは、後からのこじつけだろう。

遊園地というものが無くても、実際には誰も困らないはずだ。

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遊園地に限らず、エンターテインメントは基本的に、無くなっても誰も困らない。

しかし、必要性が無いにも限らず、僕たちはエンターテインメントを(しばしばかなり高いお金を払って)楽しむのである。

それはやはり、人間という生物が、「好奇心に突き動かされる生き物」だからだと言えるのかもしれない。

数十年後、いやそこまで行かずとも、数年後には、今の世界にはないようなエンターテインメントが生まれているだろう。

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遊園地が売っているものを、一言で表現するのは難しい。それは、体験でもなく、サービスでもなく、空間でもない。

たしかなのは、それは「生きるのには直接必要ないものである」ということ。しかし、多くの人間は、それにお金を払う。

エンターテインメントには、まだまだ多くのビジネスチャンスが眠っていると思う。

そのビジネスチャンスの多くは、掘り起こされることもないまま、誰も訪れることのない遊園地として、人々の潜在意識の奥底で、ひっそりと営業を続けている。

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