気づきの支援日誌7/12
「よくないところ」「悪いところ」と社会的に評価されるような要素を、どのような人間でも持っている。
それは、そうした社会的評価含め、完璧とは程遠い社会のさまざまな矛盾を学ぶようにして、幼い頃から現在に至るまで適応しながら生きてきたのだから、当然と言えるのかもしれない。
社会の中でさまざまな要素を学び、それが生きるための適応パターンとして内在化される。それらのパターンの集合が性格となる。
こうした生身の体験から生成された性格を、単純に自己責任とするのは無理があるようにも思う。
個人の一部として語られる性質に対し「そうなってはいけない」「よくない状態になっている」という捉え方も、ひとつの解釈としてできるかもしれないけれど、セッションではそれよりも、そうした側面が、ご本人にとってどのようなものとして感じられ、どのような意味を持つのかという、その方にしかわかり得ない背景を、大切に感じたい。
もちろん、共有してくださることで、無毒化して、安全なものに意味内容が変容していくことに、責任を持って関わっていけるというのもある。
ただ、本心としては、唯一無二の存在である目の前の方が感じていることを、可能な限りご一緒に感じていきたい、という想いが先行している。
これは一種のワガママなのだろう。
駆け出しの頃を思い返せば「一緒に感じていきたい」という想いのために、お金をかけてさまざまな病理の事例やパーソナリティ理論をあさって、どのような方であってもご対応できるよう準備を整えたり、自身の中にあるオリジナルの葛藤を先に片づけておきたいと思い立って、いろんな先生にお願いして分析訓練を受けたりした…
まぁ、絶えず発展し続ける社会に生きる以上、自分自身もいろんな矛盾を学習して、オリジナルの葛藤は追加されるだろうし、まだ今もいろいろあるだろう。
それも大切に感じ取りながら、意味内容を変容させてセッションの時の他者理解やその他の社会生活に活用できる素材として、自分の性格に統合させていきたい。
そう考えると、この世に意味のないことなんてなさそう。
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