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ゲシュタルト療法を学んで心揺さぶられ人のあり方について考えたこと【コーチングにまつわる話】(2024.6.27改訂)


はじめに


この 2024 年の 4 月で、私がコーチングを学び始めて丸2年が経ちました。

よく「コーチングの学びは沼のようだ」と言われますが、それはコーチングそのものの奥深さと、コーチングの周辺領域の奥深さにあると思います。周辺領域とは、コーチングに影響を与えているものたちです。心理学、哲学、NLP、自己啓発、仏教、禅、U理論、心理療法、エトセトラ、エトセトラ、、、挙げていくとキリがありません。正確なところも分かりません。それぞれが沼を抱えているようなものです。

その中で、私は受講生だった頃から「ゲシュタルト療法」に興味を持ちました。コーチングの要である「いま、ここを感じる」ことをもっと学びたいと思ったのがきっかけでした。

私がここで「ゲシュタルト療法とは?」を説明するのは、おこがましいと感じるし、誤った理解を促す危険性があります。ここで話をするのは、私が感じたこと、考えたことだとご了承ください。一応、参考までに Wikipedia のリンクだけ貼っておきます。(でも、このページを読んでも分かったような分からないような・・・という気分になるかもしれません。)


コーチングは、コーチがクライアントの話を聴くことで、クライアントに気づきと行動が生まれるプロセスです。ゲシュタルト療法も、クライアントの話を聴くことに変わりはありません。




ゲシュタルト療法のプロセスとそこに感じる怖さ


私は 2023 年 2 月 ~ 3 月にかけて、コーチ向けに開催されたゲシュタルト療法に関するオンライン講座を受けました。そして、つい先日もコーチ向けに開催されたゲシュタルト療法に関する対面の講座に参加しました。

ゲシュタルト療法の学びにおいて重要なのは、その成り立ちや基礎理論を知ることもさりながら、実際にワークを体験することです。

コーチングはクライアントとコーチの1対1の対話であることが圧倒的に多いのですが、ゲシュタルト療法においてはグループワークで対話を行うのが最大の特徴です。クライアントひとりに対して、場をもつファシリテーターがひとり、そして周りを取り囲む参加者がいます。

クライアントの悩みがなんであれ、ゲシュタルト療法のセッションではクライアントの過去や家族との関係に触れることが比較的多く、それらに対してクライアントが「いま、ここ」で、どう感じているかをひたすら聞かれます。気持ちを言葉で表現するだけでなく、体の感覚や、何気ない仕草の意味を聞かれたりします。

ファシリテーターの問いかけにより、クライアントは自分自身の「いま、ここ」の声に耳を傾け、言葉や表情や態度で表現します。そのプロセスで気づきや癒しや新たな視点を得ていきます。

そして、多くのクライアントがセッション中に「泣く」ことになります。言葉を詰まらせ、涙があふれ、鼻水も流れ、号泣または嗚咽に近い身体反応が起こります。クライアントだけじゃなく、周りを取り囲む参加者にも起こりえます。

私はそこに怖さを感じてしまいました。泣くことに。号泣することに。嗚咽することに。何が起こっているんだろうか。分からないけれど、何かが起こっている。

泣くということは、心が大きく揺さぶられて起こる身体反応です。私はそこにこそ怖さを感じているのだと思います。泣くことではなく、心が大きく揺さぶられることに。




なぜ、心が大きく揺さぶられるのか


「心が大きく揺さぶられることに怖さを感じる」と書きましたが、それを乗り越えることが未だできず、ゲシュタルト療法のクライアント体験はまだありません。ああ、それなのにこんな note を書いていいのかなあ。

でも、クライアントとファシリテーターを取り囲む周りの参加者として、いくつかのワークを体験しました。そして、クライアントが悩みから解放されたり、クライアントの何かが浄化されたり、クライアントが新しい気づきに驚いたりしているのを目撃しました。クライアント自身だけでなく、周りの参加者である私たちにも、クライアント自身の体験に近しい何かが起こっていると感じました。

なぜ、心が大きく揺さぶられるのか。答えは分からないけれど、私が先日の講座におけるワークショップで強く感じたことを言葉に残しておきたいと思います。

ひとりの人としてそこにいる


これはファシリテーターの 百武正嗣さん に強く感じたことです。

言葉では上手く説明できません。ここに言葉で表現しようとするだけで、なんだか嘘っぽくなってしまうというか、重みを失ってしまうというか、薄っぺらな説明になってしまう気がします。

でも、あの場にいたクライアントも参加者もみんな同じようなことを感じたはずです。百武さんの「人としての在り方」に何か感じるものがあったはずです。

百武さんからクライアントへの問いかけは、一貫して、率直でシンプルでした。百武さんが感じたこと、思ったこと、知っていること、それらをストレートにその場に出しているのが分かりました。

コーチングには「コーチとクライアントは対等である」という原則があります。百武さんはさらに「コーチである前にひとりの人であること」を意識するように、と解説していました。そして、それをセッションにて体現されていました。これはゲシュタルト療法とコーチングの違い、という話ではなく、誰かを支援する人としての話です。

百武さんからの問いかけを、クライアントも率直に素直に受け止めているのが分かりました。始めは躊躇があったかもしれないけれど、「ひとりの人として」そこにいる百武さんの姿勢に、クライアントも「ひとりの人として」そこにいるようになったのが分かりました。

ゲシュタルト療法のファシリテーターの問いかけはコーチングと違い、自分自身以外の存在の声を聞かれることがあります。例えば、あなたのお母さんはどう思っているのか? とか。または、あなたのお父さんはどう願っているのか? とか。クライアントはただただ「いま、ここ」に浮かんだことを口に出してみます。それが正しいかどうかは問題ではなく、クライアントの「いま、ここ」にフォーカスすることが大事なのだと思います。

百武さんが「ひとりの人として」問いを投げかけることで、クライアントも一切のしがらみを捨てた「ひとりの人として」の純粋な思いや願いを露わにすることになります。

そうして、心が揺さぶられたのかどうかは実のところ分かりません。でも、きっとそうであると思います。「ひとりの人として」やり取りをするプロセスが心を揺さぶるのだと思います。


私たちはこの惑星に一人ぼっちで生きているのではない。
社会の一員としている。


ゲシュタルト療法はグループワークで対話を行うのが特徴であるとお伝えしました。クライアントとファシリテーターを真ん中にして、その他の参加者たちがぐるっと円座になって囲みます。オンラインでは、その場にいる全員が画面オンの状態で、つまり顔が見える状態で参加します。

この状態が、真の心理的安全性を育むと説明されました。

1対1の状態とは、つまり密室なんだそうです。・・・確かに。でも、そこには絶対的に心理的安全性が無い訳ではありません。カウンセリングでもコーチングでも 1on1 でも、カウンセラーなりコーチなり上長なりは、しっかりとした職業倫理を持って臨むことで、その場に心理的安全性を生むことはできます。

ゲシュタルト療法のセッションでは、複数名がその場に立ち合います。そうすることで、参加者はクライアントに近しい心の揺さぶりを受けることができるとともに、その場を健全に保つ役割も果たすのだと思います。クライアントとファシリテーターのやり取りを見守る参加者の目が、彼らの関係性を対等で健全ものに導いているのだと思います。

私がその場にいて感じたことは、みんなしてそこにいる、という当たり前の感覚でした。社会の一員としてそこにいる、と言い換えてもいいかもしれません。クライアントが周りの参加者をどう感じていたのか、正直なところ分かりません。体験がないので。でも、一人ぼっちではない、というような安心感はあったのではないかと思います。どうだろうか。

私たち周りの参加者は、クライアントの相談内容を直接耳にすることになります。セッションが進むにつれてクライアントがどう揺さぶられるかを目撃することになります。共感を感じたり、反発を感じたり、疑問を感じたり、受け止め方はそれぞれでも、一緒にひとつの物事に対して何かを感じ取ります。

共感なのか、共鳴なのか、その場にいる全員が何かを感じていました。その感じるパワーが場を満たしていて、私たちはそのパワーに心を揺さぶられたのだと思います。

うーむ。これらも言葉では上手く説明できないことですね。そのパワーも心も実体として目に見えないから。でも、確かにそこにありました。心を揺さぶられたのだと目に見えて分かったのは、涙を流している人がいるということでした。




「ゲシュタルトの祈り」


ここで、ゲシュタルト療法の生みの親の一人であるフリッツ・パールズの詩を紹介します。「ゲシュタルトの祈り」と呼ばれる詩です。

私は私のことをする。あなたはあなたのことをする。

私はあなたの期待に沿うために生きているのではない。

あなたも私の期待に沿うために生きているのではない。

あなたはあなた、私は私である。

私たちが縁あって出会ったのであれば、それは素晴らしいことだ。

もし、出会うことがなかったとしても、それはそれで仕方のないことだ。


この詩を読むと、百武さんの「人としての在り方」や、ゲシュタルト療法自体の在り方またはセッションの進め方について、理解ができるような気がします。

ゲシュタルト療法は、ユダヤ系ドイツ人(またはドイツ系ユダヤ人というべきか)であるフリッツ・パールズとローラ・パールズの夫妻が創り上げました。彼らは第二次世界大戦の最中にナチスからの迫害を逃れて、最終的にアメリカに辿り着きます。生き延びるために。

二人が「生き延びるために」アメリカに辿り着くまでに直面したであろう選択肢と決意を想像すると、二人が創り上げたゲシュタルト療法には、困難を生き延びるための要素が込められているに違いないと感じます。

そしてそこには、人としての優しさや強さを感じます。生き延びるために逃げるという選択をするのは、容易なことでは無かったに違いありません。でも、肝心なのは生き延びたことです。

「ゲシュタルトの祈り」の詩にもそれが現れているように感じます。




ちなみに蛇足になりますが、以前この関連性を聞いてとても感動した覚えがあるので、ここに残しておきます。

それは、『夜と霧』のヴィクトール・フランクルです。彼もパールズ夫妻と同様にナチスからの迫害の対象となりました。そして、強制収容所に収監されるも、生還し生き延びた人です。

『夜と霧』は、その強制収容所に収監されていた間の体験記です。絶望的な状況の中で、人はどう生きる希望を見出し、どう生き延びていくかが、フランクルの実体験と共に綴られています。ここにも「生き延びるために」というキーワードが出てきます。


以前書いた私の note において、私の個人的体験を用いて『夜と霧』を紹介していますので、よかったら読んでやってください。




さいごに


さて、ゲシュタルト療法を学んで人のあり方について考えたことをつらつらと綴ってみました。まだまだ学びの初心者のため、これから本を読むなり、ワークを受けるなりして、もっともっと深めたいと考えています。

ゲシュタルト療法の学びは、間違いなく私のコーチングにも影響があると思います。まだまだ学びの途中ですが、今の私にできる限りのパフォーマンスを発揮したいと思っています。

本当ならここで「ゲシュタルト療法の学びよかった!!!万歳!!!」という感じで締めくくりたいところですが、ここまで読んでくださった方に私のコーチングについて宣伝させてください。私のコーチングについて書いた note を紹介させてください。

こちらです。


つまるところ、コーチングのクライアントさん募集しています。どうか、どなたか、私にあなたのことを話して欲しいという話です。

私のコーチングに興味を持ってくださったら、ぜひ体験セッション・有償セッションにお申込みいただきたいです。下記フォームよりご連絡ください。



フォームからお申込みいただきましたら、私の方から折り返しメールにてご連絡いたします。お待ちしております。




ここまでお読みいただいた方には本当に感謝申し上げます。

冒頭の写真は、カナダのケベック州にあるガスペという町で撮ったものです。ペルセ岩という大きな岩を見に行ったのでした。2006年の10月のことでした。秋というよりもはや冬の寒さで冷たい雨が降っていて、私は一人きりで、町にも人が見当たらず、孤独感と高揚感を味わった旅でした。

ゲシュタルト療法とちっとも関係ないけど、なんとなく一緒に紹介したくなったのでした。

ペルセ岩


ここまでお読みいただいたことに感謝です。毎回生みの苦しみを感じつつ投稿しています。サポートいただけたら嬉しいです!