知識からの誘惑

少し前にtwitterで「知識それ自体は空集合」という投稿をしたところ、質問をいただきました。
質問してくださった方、ありがとうございます。
質問していただいたことで、自分では意識に上がっていなかった思考が展開されていきました。
twitterの返信でお答えしようと思ったところ、返答が想定外に長くなってしまったのでnoteの記事としてまとめてみます。
 

当該のツイートは思考の断片を忘れないように、メモのつもりで投稿したものであった記憶があります。
その時は、知識や概念と物理空間との関係性や、知識をどのような距離感で置いておくことが行動につながるのかといったことについて考えていたと思います。

今回の話の前提を先に共有します。
それは、知識や概念そのものは物理空間には存在していない、ということです。

例えば、「犬」という存在そのものに私たちは触れることはできません。

私たちが触れることができるのは、「犬」にカテゴリー化される個別具体的な名前のついた個体です。1匹1匹が区別される生物としての犬です。

全ての個別具体的な犬は別々の個体ですが、同時に、「犬」に共通する何らかの性質を持っています。それは、見た目に基づいたものかもしれませんし、遺伝子的にグループ化されるものかもしれません。

いずれにせよ、「犬」という知識・概念には触れることができません。「犬」とは、物理的に存在する個別具体的な生物の中でも、ある共通する要素を持ったものに対する抽象化されたラベルである、ということです。

別の捉え方をすると「犬」という知識は、集合(グループ)につけられた名前であるということです。
その集合の要素には、人が「犬」として認識する具体的な個体全てが含まれます。

今生きている犬だけでなく、かつて生きていた犬や、これから生まれてくる犬など、過去や未来に存在する全ての犬も含まれます。
また、誰も見たことがない野生の個体であったしても、人がそれを見た時に「犬」として認識するものも含まれます。

「犬」という情報空間(あるいは認知空間)に存在する一つの知識は、物理空間の過去、現在、未来、全ての犬個体を指し示すということです。

ということは、「犬」という集合の要素は、実質的に無限にあるということになります。

これは、他のあらゆる知識・概念についても言えます。
非常に抽象化された概念であったとしても、具体化していくと、どこかで物理空間の存在や現象と結びついています。
また、目に見えない存在や現象に関する知識も、人が臨場感を感じるという意味では、身体を持った物理的な存在でもある人間に結びつけられたものと言えます。

ということは、全ての知識は無限集合である、ということになります。
 

ここで少し立ち止まって考えてみたいことがあります。
それは、「ある知識に含まれる要素は無限である」という主張は、どんな視座からなされているものであるか、ということです。

先ほどの「犬」の例に戻れば、ある人が生涯に認識できる具体的な犬の数は有限です。
自分が生まれる前や死んだ後に存在する犬を認識することはできないので当然かもしれません。
ということは、「ある知識に含まれる要素は無限である」という主張は、身体を持った物理的存在としての人間の視座からなされたものではないと考えられます。

では、どのような存在の視座からの主張なのか?
そのような主張を理解可能な人間は一体どのような存在なのか?

それについて、ここでは詳しく触れません。(私自身が、現時点での考えを言語化できていないということも理由です。)

今回の話で重要なことは、「私たちが何らかの知識を得たとしても、身体を持った私たちが実際に認識できる、体験できる要素は有限である」という点です。

私たちがある知識を得た時、その知識を得た段階では、知識に含まれる要素を認識していません。
そこには無限の可能性に開かれた空間があるのみです。
コンピューターで言えば、データやファイルを入れるための空のフォルダを作成した状態です。

しかし、知識や情報を重視する現代に生きる我々は、知識を得た段階で満足してしまっていることが意外と多いのではないでしょうか。

知識を得た途端、無限の要素も認識したような実感になっていないでしょうか。

実物を見たり、実際に体験することがなければ、人にとっての知識の中身は空のままです。
(そのようなことを考えながら、「知識それ自体は空集合」というtwitterでの投稿をしたのだと思います。)

別の見方をすると、新しい知識を得ることは、「潜在的に無限の要素があるにもかかわらず、まだ空っぽの空間」を認識することであるとも言えます。
新たな知識は、そこに今まで認識していなかった未知があるということを教えてくれます。
その認識は私たちの好奇心を刺激し、実物を見たり、実際に体験することへと導いてくれます。

知識を学ぶこと、それ自体もとても楽しいものです。私も知識を学んでいるときは、他のことを忘れて没頭してしまいます。
しかし、知識を得るだけで止まってしまうのは非常に勿体無いとも思っています。

知識を得たことで開かれた新たな無限の空間を、身体を持った人間として実際に体験していくこと。

具体的な要素に実際に触れていくこと。

空白を埋めていくこと。

知識は、私たちをそういった体験に誘惑してくれるものでもあると思います。

一方で、新たな知識をきっかけに生まれた未知の体験や認識は、新たな語りへと私たちを駆り立てます。
新たに得たどの集合にも属していない要素を、自分の中に位置づけるためです。
その過程において、別の新たな知識や概念を自分のものにするかもしれません。
あるいは、すでに持っていた知識の体感や知識同士の関係性が変化するかもしれません。
そのような認識の変化が、さらに新しい体験を呼び込んでくれるのだと思います。

知識と体験をダイナミックに行き来すること。
それは、片方を経て、もう片方をより知っていくことです。
そして、そのプロセスの中で私たちの認識の枠はどんどん変化していきます。

 

知識を得ることは、まだ知らない領域に触れるということ。
それを体感したときには、すでに、知識と体験を行き来するプロセスの中にいるのだと思います。