反省じゃなくて内省。自分を認める内省力を鍛える。
内省ってなんだか難しそう。
というかめんどくさそう。
というか自分の感情に目を向けるってなんだか意味わかんない。
と思っているひとにこそ,一度チャレンジして欲しいです。
感情って自然発生してそうで,案外そうでもないので,自分の在り方を変えたいと思うなら反省会や反省文ではなくって,まずは自分の感情やそのときの自分の在り方について気が付くために,内省,振り返り,リフレクションを続けて欲しいと思います。
一ヶ月も続ければ習慣化しますから,そうするとあら不思議,だんだんと自分の行動と感情の結びつきパターンが見えてきて,そうすると気をつけるようになりますし,こういう普段考えないことをしっかりと考えることで,物事を深く考えるクセもついてきて一石二鳥です。
※この記事は大人向けですが,中高生でも,物事を深く考えることができる子はいますので,訓練次第でしっかりと内省できるようになります。
しかし,自分の感情の発生源について考えることを”めんどくさいこと”だと思ったり,感情はコントロールできず勝手に発生するものだと決めつけたりする場合,内省力のトレーニングに至るには時間がかかると思います。
「内省力」というのは,
言い換えれば「俯瞰力」「振り返り力」「インナーマッスル」です。
どれもわかりづらい?
…そうですね。
要するに,自分の行動を振り返って,できるだけ客観的にその行動と,そのときの自分の気持ち,感情を詳細に分析してみることです。
内省力を鍛える方法を書いてみます。
「その気になったら即お試し」は,人生を豊かにするための基本です(リスクヘッジは忘れずに)。
知らないうちに振り返り(Reflection)が身についている,天然リフレクショナーもたまにいるのですが,たいていは意識して振り返りをしているうちに身につくものです。
とりわけ自分の感情の発生源を探るような振り返りはなかなか自然には始められないので,ぜひとも意識して始めてみてください。
これ,大人も子どもも,できるかぎり毎日の習慣にしてしまいましょう。
毎晩,湯船につかっている時間のうちのほんの5分でOKです。
内省を習慣化して自分を認める時間をつくろう
1.目を閉じて,今日一日の出来事や行動を思い出しましょう。特に気になる出来事ひとつでOKです。
2.登場人物ではなく,私の行動とそのときの感情に注目しましょう。
3.その出来事において,自分はどのような考えで行動したかをしっかりと思い出します。(腹が立ったことを思い出すのなら,もういっかい腹が立つぐらいしっかりと思い出しましょう!)
4.そのとき,私はどう感じていたか。なぜ,そのような気持ちになったのかをしっかりと考えましょう。コツは第3者の視点で私を観ることです。腹を立てている自分を主観カメラでなくて,客観カメラで遠くから眺めてみましょう。
5.行動や考えや感情を否定する必要はありません。評価したり,善悪の判断をしたり,反省したりダメ出ししたりするのではなく,自分自身を客観的に観察と考察をするだけです。
たとえば,なにか失敗したとします。それを振り返るとき,自分がダメだった点をいくつかあげて,あぁ自分はなんてバカだったんだろうと思うでしょう。
しかし,言ってしまったことや,やってしまったことを後から取り消すことはできませんし,それを批判したところで結果を変えることはできません。次につなげるというよりも,自分を向上させるための分析に役立てましょう。
自分の考え方を客観的に見直すことで,陥りやすい思考パターンや行動パターンを把握するように努めるだけでOKです。
内省する力を鍛えると,何が良いかというと,当たり前ですがメタ認知能力が向上します。メタ認知を意識して訓練しているようなものなので,そりゃぁ何もしていないひとに比べて格段にあがります。
メタ認知の力が向上するとどうなるかというと,視座が上がって,視野が広がります。
第3者視点でものごとを観ることができれば,ひとつの物事を見る角度が増えるということですから,感じ方,考え方,理解の仕方に幅ができます。幅が出来るということは,引き出しが増えて,許容する入れ物の深さが出て,多様な在り方を受け入れる大きな器を得ることを意味します。
許容量が増えるということは,辛いことや大変なこと,困難や苦痛,ストレスを受け容れて,簡単には折れない,折れても曲がらない,すぐに元に戻る,柔軟でしなやかなマインドを手にできます(できているひと,ホントにうらやましいです。なかなかこの境地には至れません…日々精進ですね)。
さらには,主体を見失わず,刺激に対して自動的に反応してしまうことを極力抑えて,選択的に対応することができるようになります。こうして書くと大げさですが,ジリツを促すと考えてください。主体的に生きるということは,自分で考えて,自分で決めて,自分で行動することです。そして結果をしっかりと受け止めて,その責任をとることです。
しっかり内省して,建設的な人生を送りましょう!
※とはいえ,僕らは人間だもの。
すべてを受け止めて,いっさいひとのせいにせず,自分にできることだけを考えて,前を向き続けることは簡単ではないし,それができないからといって,自分ってなんてダメなんだろうなんて思わなくても大丈夫です。
日々少しずつ精進していけばよいだけのことですから。
理想論だと投げ捨ててしまえば向上はありませんが,昨日よりも今日は1mmでもいいから向上しようと思えば,それだけで十分に価値があることなのです。
ただし,注意点があります。
視野が広がるとか,物事を多数の視点で観ることができるとか言うと,あたかもそれが最強で最高のように感じるのですが,実はそうでもありません。
いったん広がった視野や視点の数は,もう元に戻すことはできないのです。
視野が広がれば,観なくて良かった景色を観ることになります。
知らなければ,何事もなく済むことが知ってしまったがために,余計に苦労をしたり,考えすぎてしまったり,辛いことを引き受けることになったりしてしまいます。
メタ認知は,訓練によらず,経験を積むことで向上しますし,そのひとが与えられた役割によっても成長します。社会における自分の立ち位置で,その役割は変化しますから,たとえばメタ認知を向上させようと思っても思わなくても,勝手に成長してしまうことはあるでしょう。
しかし,意識してこれを鍛えようとすれば,何もせずに機会を待つだけのひとよりも,はやく,そしてより高く向上していくでしょうから,その広がりによる弊害は少なくありません。
視野が広がり,視点が上がれば,思い込みの袋小路から脱出しやすくなります。
一方で,思い込んでいた方が楽なこともたくさんあります。
真理には近づけませんし,他のすごいアイディアや他者の良いところ,自分の考え方の未成熟なポイントに気が付くこともできませんが,それでも視野狭窄の方が心は穏やかなこともあるかもしれません。
自分の価値観に照らして正義を貫こうとするなら,視野を広げて「いやまて,これって本当に正しいのか。他の人の視点に立つことはできているか?」なんて考えていたら正義の邪魔になるかもしれません。
本当に好きなことを誰にも文句を言われることなく集中したいなら,その瞬間は他のものなんて見えない方がずっと楽しいだろうとも思います。
しかし,それでも僕は広い視野をもちたいです。
自分だけの世界に留まって,「自分だけが正しい」と思い込んで,それ以外の何かに気が付かないお山の大将にはなりたくないです。
もしも僕が世界で一番正しいひとになったとして,あらゆる他の考え方を吟味したうえで,最終的にそんなふうに結論づけたとして,あるいは他の誰もがそう言ってくれたとしても,それでもなお自分の考えが及ばないところへ視界を拡げたい。そのほうがきっと楽しい。
ちょっとぐらい辛くても苦しくても,世界の真理に一歩でも近づくのならその方がどんなにか楽しいだろう。ドキドキワクワクを見つけるチャンスは,間違いなく視野が広いほうがたくさん見つかりますよ!
サポートいただけると燃えます。サポートしすぎると燃え尽きてしまうので,ほどほどにしてください。