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主観を指摘されること,主観に気付くこと/7つの習慣セルフコーチング

不機嫌そうな顔をしたマクドナルドのレジのひとに商品を投げて渡された。
物を投げて渡すなんてあんまりにも態度が悪い,ましてお客さんに対して。だから文句を言ったら,最初は「投げてません」と言っていたが結局最後は謝った。


目の前で起きたことが,事実なのか解釈なのか。
これらの中から事実だけをピックアップすることは,客観性をもった他者であればそれほど難しくない。

一方で自分が「態度が悪いなぁ」と感じた立場だとすればこれはやっぱり難しいんだろう。



これがでは「他者から指摘を受けた」場合はどうだろうか。

これらの中で,どれが事実で,どれが君の解釈なんだい?たとえば,「商品を投げた」というのは事実かい?「不機嫌」は客観的事実と言えるかい?



ここで自分の解釈を止められるひとは一定数いるだろう。
あるいは,その「他者」が自分の信頼する誰かであれば,さらにその数は増えるだろう。

しかし僕はどうだろうか。
他者から受ける指摘は,いくらかでも非難や批判に聞こえることがある。確かにそうだなと思いつつも,反発する気持ちの方が強くなるかもしれない。

その意味でセルフコーチングは受け入れやすいものだ。

自身の声に耳を傾けることを習慣化してしまえば,自分の声なのだから反発心はおきにくいだろうし,自分で気が付いたことにはモチベーションがあがりやすい。内発的動機は維持されやすく,意識も向上するものだから。


冒頭のツイートを見つけたとき,自分の正義は誰も簡単には疑わないものなんだなぁと率直に感じた。

どちらが良い悪いという話ではない。そもそもそのツイートからは正直事実はほとんどわからないし(ツイート自身が極めて主観的なものだからだ),仮にすべて事実だとして,オーバースローでものすごい剛速球を投げるようにハンバーガーを彼(彼女)にめがけて投げつけたのだとするなら,それはそれでそこに至るまでの何かがきっとあったろうから,これまた善悪の判別はきわめて困難だ。

つまるところ,僕はそれを読んで,さらに主観的な思考を飛躍させて,今この文章を書いているわけで,もしこれを読んだひとがさらにその主観に主観を載せたことを思うのなら,それはなかなか楽しい,とそういうことを思ってしまった。

セルフコーチングの技術は,主観ベースに客観を載せるという複雑なスキルでもある。

どこまでいっても僕らは主観から逃れられないのだが,それでも主観に気が付くだけずっと客観寄りにはできる。それができればきっとあのツイートだって送信する前にもう一工夫できただろうなぁと,なんとなくそんなことを思った。

そのためのセルフコーチングなのだ。

サポートいただけると燃えます。サポートしすぎると燃え尽きてしまうので,ほどほどにしてください。