未経験の僕が仕事を辞めて学習塾を開校する話その24―褒めて伸ばす話
唐突ですが,僕,キホン褒めません。
理由のひとつは,中学生は自我を鋭意制作中で,自分の価値を周りに求めがちだからです。
褒められて伸びるというのは褒められたいために伸びるということなので,これから先も誰かに褒められることを期待して勉強することになります。
ひとはやがて独りで学んでいかなくてはいけないし,いずれ努力してもわかりやすく結果がでない日がやってきますから,褒められるかどうかと努力を続けるかどうかをリンクして欲しくないと思っています。
褒められることで,自分の価値を確かめていると度々感じるのは,客観的な評価を受け止める余裕がないことからもわかります。褒められたくて,自己アピールしているであろうことは,褒められないところはアピールしてこないことからもわかります。
反対に客観的な判断,フィードバックを必要としている生徒たちは,自分自身を受け入れることができていて,たとえ今まだ開花していなくても,いつか必ず開花する子たちです。
褒めることを駄目だと思っているわけじゃありません。
実際には,僕だって褒めることもたくさんあります。
ただし,結果ではなくて過程です。
僕がビックリするほどがんばっている生徒たちには容赦なく,感嘆の声をあげますし,めちゃくちゃがんばったのに結果出なかった子との1on1では,あんなにがんばったのに結果出なくて悔しいよなぁ,悔しい。俺も悔しい!と声を荒げることもあります。
できているところは,本人の認識を深めるためにも「ここはできている」「ここはできるようになった。」「以前よりもずっと深い理解ができてる」というような現状認識をしっかりします。
実感があるかどうかも聞きます。
急激に実力がついてくる時間帯になると,本人も実感できるぐらいに加速度を付けて伸びますから,そのときはあえて本人に強く自覚をしてもらいます。
それに気が付くことで,
今僕は実力がついている!
楽しい!うれしい!もっとがんばろう!
となります。
闇雲に結果を褒めたり,正答したら褒めて,間違えたらスルーというわかりやすいヤツではたぶん「正解しなくては褒められない」「正解しないとダメなヤツ」という刷り込みになるのではとも恐れています。
正解しなくてもダメということではないのは明らかなのですが,「褒めて伸ばす」はそれが見えにくくなってしまうところが若干不安だなと思うのです。
ちなみに僕がマンツーマンでみているときは,間違えが出たときはむしろチャンスだと言っています。弱点が見えてきたときには,これで克服への第一歩が踏み出せたと考えます。
なので演習問題を解くだけで,8割取れたよスゴイでしょ。
という報告はたいていスルーして,残りの2割はどうだったの?と聞きます。どこで間違えたのか,何が課題なのかを聞き返さないと「できた→褒められた→アタシスゴイ」で終わってしまって,せっかく間違えた2割のチェックがおざなりになってしまうのです。
それでは間違えた意義がなくなりますし,次も8割止まりです。
できなかったことをできるようにすることが勉強なのですから,演習問題を解いて80点取った!では何の勉強にもなっていませんし,いよいよできなかったところが判別したところで満足してしまっては,一体何のために演習問題をやったのかわからなくなってしまいますから。
そういった意味で,本当の褒めて伸ばすはなかなか難しい手法です。
褒められたいがためにがんばるという外的動機付けは,内なる動機にはかないません。要求される報酬はどんどんエスカレートする一方ですし,褒められないならがんばらないという本末転倒な結末を導くおそれもあります。
内的な動機付けを促すよう,外部評価と動機付けをリンクさせないように気を遣いながら褒めて伸ばしていきたいところですね。
サポートいただけると燃えます。サポートしすぎると燃え尽きてしまうので,ほどほどにしてください。