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話をしたら悩みは解決するんですか?しないんですよね?じゃぁ話す意味ありますか?

「話をしても解決しないじゃん。」

そう。解決しないです。

「話をするには,誰かのことを悪くいわなくちゃならないから話したくない。誰かのことを悪く言いたくない。」

話したくなったら話してくれればいいです。
信頼できる誰かに話をすればいいです。カウンセラーでなくてもいいと思います。
でも誰かのことを悪くいわなくちゃならないというのは本当でしょうか。


そのあたりに「歪んだ認知」が潜んでいるのではと勘ぐったりもします。

ただまぁ,そういう話は置いておいて,誰かに胸の内を明かすということは,何かの解決をしてもらうとか,話す効用として「問題がなくなる」みたいなこととは少し違うのだろうなと思います。

話せば楽になるというのも,話す理由の何パーセントかなんでしょうけれど,しかしそのために話をするということでもないような気がします。


話し手は解決を願って相談する。
聞き手は話し手が自ら解決に向かうことを願う。


それで僕は「解決」ってなんだろうかと考えるのです。

話し手の「解決」と聞き手の「解決」はスタート時点ではきっと違うものだろうと思うし,なんなら聞き手は「解決」して欲しいと思う反面,「解決」しなくてもそれはそれで何かしらの効果を持つと思っています。



経験上そういうことは多いです。
当初抱いていた「解決」とは違う「解決」を手にするひともいます。

60分も話をすれば,話し手は何かしら得るはずだ,という自負もあります。彼らの言う「解決」はそもそも簡単には手に入らないものだし,何をどうしても「解決」することはないものも多いのです。

友だちに酷いことを言われて傷ついた。

友だちの謝罪が欲しい,と言う。
けれど直接的に友だちに謝罪させるような方法はありません。率直に想いを伝えてそれで友だちが何か感じることがあれば謝ってくれる可能性はあるのだけれど,強制力はありません。仮に強制力があって,強制的に謝罪させたとしても,それで君が満足するでしょうか。


大好きなひとと別れることになって辛い。

大好きなひとにもう一度戻ってきて欲しい,と言う。
けれど心が離れた彼を直接的に振り向かせるような方法はありません。それを決めるのはどうあれ彼自身だからです。形を取り繕うようにお願いをしても,たとえばそれで形だけ元に戻してくれたとしても,おそらく何の解決にもならないでしょう。



そんなふうに他者の心を変えようとすることは建設的ではありません。

しかしそう感じてしまったり,そう願ってしまったりする「弱い心」は,ひとそのものだと思うのです。
誰しも根拠なく,行動と関係なく,勝手に,自ずと,願いが叶ったらいいのにと思ってしまうものだろうし,かくいう僕自身もそうですから。

一晩眠って,朝目が覚めたらすべて元に戻っていたら良いと思ったこともありますし,クヨクヨしていたら誰かスーパーマンがやってきて僕を救ってくれないだろうかと思ったことだってあります。



それで僕らは問い続けるのです。
それであなたはどうしたいのですか?と。

目的地があるのなら,そこに向かうために視線をあげるしかたどり着く方法はないからなのだけれど,そしてそれは誰もが知っていることなのだけれど,見失ってしまうこともあるものだから,あえてそういうことを聞き直すのです。


そのときあなたが「あれ,わたしどうしたいんだろうか。」と思ってくれたらこれは僕らにとって悪くない仕事です。

そのお手伝いができれば僕らは幸せなのです。



けれども,もしも誰にも話をしたいと思えないのなら,まずは自分と相談セルフコーチング

辛かったり,苦しかったりする気持ちを十分に感じて,十分に自分と話ができたなら,その先に進んでみようかという気持ちになるかもしれません。そのタイミングで自分は本当はどうしたいんだろうか?とたずねてみたらいいでしょう。

そのためには今自分に何が出来るだろうかとたずねてみてください。

大切なのは何を持っているかではなく,持っているものをどう使うか。

昔から,ずっとずっと昔から,たくさんの立派な先生達がそう言っていたんだから間違いありません。



サポートいただけると燃えます。サポートしすぎると燃え尽きてしまうので,ほどほどにしてください。