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日本代表サポーターはなぜゴミを拾うのか?


日本代表のFIFAワールドカップカタール大会2022は終わってしまいましたね。

ロシアW杯でのロストフの悲劇から4年半も経ったなんて信じられないくらいあっという間でした。
年を重ねると時間が過ぎるのが早く感じられますが、4年半って小学生だった子供が高校生になってるっていうくらいの時間なんですよね。
前回会った時は小学生で4号級蹴ってたのに、もう高校サッカー全国選手権に出てる!!
そのくらいの時間なわけです。

そして、その時間にヨーロッパに戦いの場を移すJリーガーも増え、日本サッカーは着実に歩を進めたはずです。
ですが、またしてもベスト8の壁を破ることができませんでした。



しかし、変わらない事もありました。


1)敗れてカタールを去る日本代表は、またしてもロッカールームを清掃し、整頓し、感謝の言葉を残して戦いの舞台を降りた

2)日本代表サポーター達も、応援に使った横断幕を片付けるだけでなく、スタジアムの観客席を掃除する姿が見られた


もうこれはサッカーワールドカップの風景としてすっかり定着しましたね。
日本人サポーターが掃除しないで帰ったら、そのことがニュースになりそうです。笑

勝ったドイツ戦だけでなく、負けたコスタリカ戦の後もサポーターたちは悔しさを胸にスタンドを掃除しました。
ゴミを蹴り飛ばしたいくらい悔しい気持ちだったに違いありません。
にもかかわらず、彼らはスタンドを清掃して帰りました。


現地メディアが日本代表サポーターを称賛する中、日本では
「褒められて喜んでいる奴隷根性が悲しい」
という大王製紙元会長のツイートが話題になりました。
「日本人の劣化が口惜しいんです」
と投稿の理由を説明していました。


実は、私も2002年の日韓ワールドカップ、2019年のラグビーワールドカップをスタジアム観戦しましたが、掃除はしませんでした。
もちろん、自分のゴミは自分で分別袋まで運び入れましたが。

でも、もし自分がカタールのスタジアムにいたら、きっと掃除の輪に加わっていただろうなと思ったのです。

自分のうちは掃除しないけど、他所にお邪魔して汚したまま帰ってくるのは忍びない、、、
そんなメンタリティーが日本文化に包含されているような気がして、ちょっと考えてみたくなりました。
「奴隷根性」氏が言うように、日本人が劣化しているのかどうかを確認する意味でも。笑

考えるきっかけをくれた「奴隷根性」氏には感謝しかありません。


(1)掃除ってなんのためにするの?


一言で言えば「清潔を保つため」ですよね。
もう少し詳しくいうと、汚れを取り除いて快適な状態に戻す、乱雑になった状態を整頓するため、といったところでしょうか。

行為としてはその通りだし、それが全てでしょう。

では、掃除は

(2)誰のために行うのでしょう?

一つは、自分のためですよね。
自分の部屋を掃除する、自分の家を掃除する。

二つ目は、家族のためですよね。
子供がいて何かと散らかるから親として掃除する。夫が外で働いてくれてるから、私は主婦として家を掃除するみたいな。

三つ目は、ご近所ため。
自分の住む町を掃除することありますよね。私の家のご近所さんは早朝自分の家だけではなく道路の掃除をしています。
私も家の近隣の掃き掃除をしています。おかげで、街路樹や庭木があるのに、道路にはゴミはもちろん落ち葉すらない状態に履き清められています。
ここまでは、自分の身の回りの話です。

四つ目は、自宅や近所といった自分の居場所とは全く違う場所を掃除する場合。
皇居の掃除なんかもこれにあたるかもしれません。
スタジアムの掃除もそうですよね。
自分の居場所ではなく出かけた先で掃除をするわけです。

スタジアムでのサポーターの掃除に対して
「清掃業者が失業してしまうからやめろ!」
という批判がありますが、不思議と皇居の清掃ボランティアにはそうした声は聞かれません。

五つ目は、海岸などを掃除する場合。
プラスチックごみの海洋流出を防ぐ、あるいはもう流れ出てしまったゴミで漂着したものを清掃する活動も広く行われています。
中には、海洋遠くまで出ていって掃除をする方もいらっしゃいます。
海洋生物を守りたいとか、地球環境の劣化を防ぎたいという目的で掃除をしているのですね。
太平洋の真ん中とか見えない場所、自分とは直接関係がない場所でも、環境が地球全体で連鎖していることを知識として理解して、海流なども計算してゴミの存在を突き止め回収をする。
これはボランティアではなくビジネスとして取り組まれています。

(3)掃除は、誰がするべきなのでしょうか?

聴いた話であってこの目で確かめたわけではないという前提で書きますが、カタール人は掃除はしないそうです。
自宅の掃除もお手伝いさん(外国人家政婦)がやるし、スタジアムなども外国人労働者が担っていると聞きました。
だから掃除をする日本人に驚くのだと。

真逆の例として、私が思い浮かべるのはお寺です。
お坊さんが境内を竹ぼうきで掃いている姿って、皆さんも容易に想像できますよね。

寺に入った修行僧は、修行の一環としてまず掃除をすることから始めるそうです。
庭を掃く、道路を掃く、廊下を雑巾掛けする。
京都のお寺の庭や境内をみても、掃き浄められた美しさに心打たれます。

仏教国というか東アジアには
掃除は「人として必須の行動項目なのだ」
という共通認識があるようにも感じます。

日本の場合、学校にも掃除の時間がありますよね。
あれは「ボランティア」でも「罰」でもなく、教育の一環として行われています。

掃除は、業者に任せるべきという考えではなく、学校で自分の身の回りの整理整頓は、人の自立に不可欠な行動と考えられているからだと思います。

経済的な自立が、自立の一つの要件と見られているように、自分の身の回りの整理整頓や清掃ができない人は一人前とは言えない、と考えられているのだと思います。

一方で、オフィスビルになると、自分の会社だからといって社員自らが掃除をしているケースは稀だと思います。

劇場やホール、スタジアムなどもそうですよね。清掃を請け負う専門の業者さんがいて、そこに業務として清掃を発注する。専門性が求められビジネスとして成り立っています。
ごみ処理ひとつ取ってみても、集める、運ぶ、処理する、にはそれぞれに高度化された社会システムがあり、社会のインフラとしてなくてはならないものになっています。

これは、公共インフラだったりビジネスだったりするので、「奴隷根性」の議論からは除外して考えていいと思います。

つまり、掃除はには

「自分の周りを自分自身の手で掃除する」

「自分の周りではないし、自分の出したゴミでもないものを掃除する」


のふた通りがあると考えていいと思います。

自分の身の周りを自分で掃除するのは、別に日本人に限った話ではないでしょう。
今回、話題になっているのは後者の方だと思います。

カタールという外国のスタジアムで、試合の応援を終えた後、日本人サポーターが掃除をする。
自分の家でもない場所を、自分の出したゴミかどうかに関わらず、場をきれいにするという目的のために片付ける。
そんな利他的な姿が外国人の驚きを誘っているのではないかと感じます。


(4)文句の反対語は感謝


今大会で、私が不思議に思ったのは観客席に空席がある事でした。
予選リーグの第3戦が消化試合になってしまったような場合には、空席が出ることもありますが、開幕戦から空席があることに驚きました。
そのことについて

ワールドカップなのに思ったより盛り上がってないじゃないか!
と不平不満を言うこともできたでしょう。

カタールサッカー協会は何をしているのか?と他人を批判したり責めたりすることもできたでしょう。

でも、日本人サポーターは、そんなことは言わずに

「4年に一度きりの大切な大会だから」

「代表選手たちがサッカー人生をかけて参加している大会だから」

「私たちは、代表選手とともに、まだ見ぬ景色を見に来たのだから」

「4年に一度というサッカーの祭典に、参加できた喜び」

「日本サッカーの歴史の目撃者になれた喜び」

「全力で戦う日本代表を、全力で現地応援できた喜び」

「強豪国を相手に怯むことなく戦いを挑んだ代表選手たちを誇りに思う気持ち」


そんな気持ちや感謝を表現するために、掃除という方法を選んだような気がしています。

私たちの代表選手たちも、ロッカールームをきれいに清掃して整理整頓して感謝のメッセージを残している。
ならば、私たちサポーターも自分のできる場所で、自分のできる範囲で、ワールドカップに感謝を表明できないか?

その表れが掃除だったような気がするのです。

私が、サッカー日韓ワールドカップやラグビーワールドカップでは掃除をしようとは思わなかったけれど、カタールでなら掃除の輪に加わったのではないかと考える理由は、そういう気持ちを共有していたからなのかもしれません。

サッカー日本代表を自分のチーム、自分の一部だと思えるサポーターは、きっとそんな気持ちになっていたに違いありません。

自分の一部だと思えばこそ、遠路はるばるカタールまで飛行機に乗って応援に行くのです。通常期の何倍かの宿泊料も顧みずに。
会社を退職して駆けつけた人もいたと聞きます。

私たちは、確かにワールドカップに参加した。
私たちの代表は、全力で戦ってくれた。

その感謝の気持ちを行為として表現したのが掃除だったのではないかと思うのです。

換言すれば、「奴隷根性」氏が主張するように、褒められようと思って掃除をしていたという他人軸の行動だったわけではなく、「ありがとう」を行動として表現した自分軸での判断が清掃という形を取ったと理解するのが近い気がします。


(5)大谷翔平はなぜコミを拾ったのか?


大リーグ、ロサンゼルス・エンゼルスの大谷翔平選手も、フォアボールで出塁する際に、走塁コース上に落ちていたゴミを拾ってポケットに入れていましたね。

アメリカメディアも、「みんな見習うべきだ」みたいなことは言わず、
「翔平はなんて素敵な奴なんだ」と報道していました。
大谷翔平が誉めてもらおうと思ってやっているわけではなく、自分のポリシーを守っているだけだということを理解していたからだと思います。

大谷選手が高校時代に書いたマンダラチャートには、プロ野球のドラフト指名を受けるためには「運」も必要で、その運を引き寄せるために自分は「ゴミ拾い」をすると書かれています。
そしてそれをメジャーリーガーになった今でも実直に守り続けているのです。

運を引き寄せるために、身辺を整理し心を整えるために、自分が捨てたのではなくても、落ちていたゴミを拾ったり、掃除をしたりする気持ちは共感できる人も多いのではないでしょうか。

一方で私は、ブラジルのサッカー選手に、試合に勝つために「ゴミを拾ったり」「掃除をしたりする」ことの因果関係を、彼らが納得のいくように説明する自信がありません。笑

彼らは、サッカーでの勝利に、掃除がなぜ関係するのか、全く理解できないでしょう。笑
これは、文化の違いであって、決して優劣ではありません。

海外メディアは、日本文化の一つの表れとして、日本代表サポーターがスタジアムの客席を掃除する姿を感嘆を交えて報道したのだと思います。
日本の街がきれいなことや、お寺が掃き浄められた場所であることは、外国人にも広く知られてますしね。

国際大会で、異文化の発露が美しい形で見られたなら、それは十分に報道に価すると私は考えます。

誉めてもらうためにやるとか、褒めてもらって喜んでいる、とかいうことは、今回の日本代表サポーターの掃除に関しては、全く該当しないように思いますが、いかがでしょうか。

日本代表チームも、
「ワールドカップという素晴らしい大会を用意してくれた関係者への感謝」
「私たちが気持ちよく使えるように、真新しい会場や清潔なロッカールームを用意してくれたことへの感謝」
を表現したくて「立つ鳥跡を濁さず」の精神で掃除をしていったのだと思います。

奴隷根性とは真逆の、
「感謝を行動に表した美しい行為、それがサポーターによる観客席の清掃だった」
のではないかと思います。



私も、日本代表サポーターの1人として、掃除をしてくれたサポーターと気持ちを一つにしています。

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