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秩序外生命体

偏愛マップ音楽編でも取り上げたNHK BSプレミアのHUMANIENCEの「絶滅人類」の回には深く深く考えさせられた。

人類は猿から分化した後、
猿人(アウストラロピテクス)、
原人(ホモ・エレクトゥス)、
旧人(ネアンデルタール人など)、
新人(ホモ・サピエンス)


と一直線に進化してきたように考えられているが、実際にはそうではなく約20種類もの人類が生まれては絶滅してきたという。


いうまでもなく、我々の祖先はホモ・サピエンスなのだけれど、ネアンデルタール人と同時代を生きており、交配もしていたことが明らかになっている。
もともとホモ・サピエンスにはなく、ネアンデルタール人由来の遺伝子がDNA調査で現代人から発見されているのだそうだ。
それは流産を防ぐために子宮内膜を分厚くする遺伝子らしく、これにより流産は減り、人間は人口をここまで増やしてきたのかもしれない。


20種類もの人間が生まれては絶滅してきた背景に、私たちホモ・サピエンスが進化の過程で備えてしまった「過剰性」があるのではないか、という指摘が刺激的だった。

実は、人類の歴史がそうであるように、ホモサピエンスが他の人類に戦争を仕掛けて勝ち残って来たという見方もあるそうなのだが、東大の先生はその説を採っていない。
なぜなら、同じ頃に、ホモ・サピエンスはマンモスをはじめとする大型哺乳類を次々に絶滅させているからである。

戦争を仕掛けて殺し合った、というよりは、人類にとって共通の食糧である大型哺乳類を、他の人類より巧みな方法で過剰に採っては絶滅に追いやるということを繰り返す中で、食糧が確保できなくなった他の人類を間接的に絶滅させてしまったという見方をしているのだ。


この「過剰性」という特徴は、自然界の中では「まれ」であるだけでなく「異端」であり「唯一無二性」がある。

例えばこういうことだ。
オーストラリアでコアラが増えたとする。
彼らの食糧であるユーカリの葉が足りなくなり、コアラが餓死していくことになる。
今度は、コアラが少なくなったことでユーカリの木が増えコアラも少しづつ個体数を増やしていく。コアラの数とユーカリの数は互いに減ったり増えたりしながらも、調和を保っている。

ところが、ホモ・サピエンスは大型哺乳類を絶滅するまで食べ尽くしてしまう。

食料がなくなると、場所を移して別の哺乳動物を食べ尽くし、また絶滅させるのだ。

対象は動物に限らない。
船を作ったり、住居にしたり、煮炊きや暖を取るための燃料にするため、人類は木を伐採し続けて来た。
必要なだけ切り倒し、丸裸になってしまった土地は表土が流出して二度と植物が繁茂できない土地にしてしまう。イースター島が典型例だ。

ホモサピエンスは、そうやって、木を切り倒し、食糧となる動物を絶滅させ、間接的に他の人間をも絶滅させて来た。

この流れは基本的に今も変わってはいない。現代を生きる我々は、多くの種を開発によって絶滅危惧種に追いやっている。

コアラをはじめとする人間以外の生物は、環境に従属して生きている。
ホモ・サピエンスだけは、過剰性によって環境を変えてしまう力を持ってしまった。
そしてついに地球環境という全ての生命の生きる前提条件になっている環境まで破壊しつつある。まさに、地球環境という調和的秩序の外側にいるというしかない。

豊な生活環境を破壊してしまったホモサピエンスは、新天地を求め結果として地球全体に広がった。
他の生き物が、自分が生息する地域を選びその自然環境に適応しながら生きているのとは対照的だ。
ホモ・サピエンスだけが、衣服を着たり、暖房を発明したりしながらあらゆる環境の場所に生息域を広げて来た。

その人間の活動により地球温暖化が進むと、これまでのサピエンスがして来たように現代人は火星に移住を計画するようになった。

スペースX社のイーロン・マスクCEOは
「何万人、最終的には何百万人の人々を火星に送り、そこから他の星を探査するのです」
と語っている。



ホモサピエンスの誕生によって、地球という神の贈り物のような素晴らしい環境は、天変地異が渦巻く住みづらい環境になりつつある。
そこでも我々が考えるのは、かつてホモサピエンスがして来たように「過剰を戒める」のではなく、科学技術によって火星を移住できる環境にしようということなのだ。



番組では、小さな人類、大人でも身長110センチほどで脳も現代人の三分の一程度しかない人類の化石を元に、島嶼効果によって人類の脳が拡大一辺倒ではなかったことを示し、生産量や人口を減らしていく方向性に望みをつないでいた。

しかし、私は人類は「過剰性を戒める」方向には進まないだろうと考えている。
それは、過剰という概念が本能ではなく、意識に根ざしていると考えるからだ。
スーパーマーケットで自由に使えるビニール袋を何枚も引き出しては自分のバッグに入れている人を観たことはないだろうか?

あれが過剰なのだ。
そして過剰性を持ち合わせていなかったタイプの人類は全て滅んでしまったのである。

過剰性には、計り知れないパワーがある。
お腹がいっぱいでも食料を備蓄しようとする気持ちは、生産を拡大し、科学技術を発達させる原動力でもあるからだ。
核兵器に代表されるように、相手国からの報復攻撃があることを考えたら、使うことができない武器を大量に生産し続けた。
これを過剰と言わずして、何と言えばいいのか。

ロシアのプーチン大統領は、世界最大の国土を持っているにもかかわらず、ウクライナに侵攻してまだ領土を拡大しようとしている。
どこから見ても過剰だろう。

そう、過剰というのは「過剰防衛」の言葉通り、必要以上に防衛することなのだ。

過剰でない人生を選択できないのがホモサピエンスだからだ。


おそらく、「智恵」には「過剰」を止める力はないと思う。



唯一、解決の方法があるとしたら、それは過剰を続けながら縮小していくことだろう。
先進国では人口が増えにくいように、豊かになっていく過程で多くの国にバースコントロールが普及していけば、地球の総人口の抑制は可能だろう。総人口は100億人を超えたあたりで反転、減少すると予測されている。

人の過剰性はそのままでも、人間の数が減っていけば地球という環境の復原力の範囲で生きていくことができるかもしれない。


地球上に、たった一種だけ過剰性を備えた生き物が誕生した。
その生き物は、過剰であることをやめられず、地球という人間にとって唯一の生存環境までも破壊しながら生存を続けている。

私たちは、環境の中で生きるのではなく、環境を破壊してまでも過剰に
求め続けなくてはならない生を生きる宿命を背負ってしまった。

この宿命は、環境にどう適応するかが生存戦略の全てである生物とは異なる生存戦略を持ってしまった人類に突きつけられた、重い、重い、課題である。






















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